賀川豊彦の畏友・村島帰之(154)−村島「アメリカ巡礼」(3)

  「雲の柱」昭和8年5月号(第12巻第5号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼(3)         羅府からサンタマリアまで
                           村島帰之
    
    (前承)
    高橋さんとの別れ

  十五日
 空気のあくまで澄んだ海辺の丘上の一夜は、迚も寝心地の善いものであった。それで八時過まで寝込んで了った。

 目をさますと、頭上の網戸から朝の爽々しい大気が流れ込んでゐる。おもやの方では、私に遠慮して小声で話をしてゐるみんなの声が聞える。もう朝飯はすんだらしい。

 朝飯後、みんなで邸内を散歩する。ドラゴン・フラワーとか、極楽草とか、珍しい花が至るところに咲いてゐる。

 「何しろ、主人が見える時に、一時に花を咲かす工夫をしなければならないんだから骨ですよ」と酉田さんが話す。

 前回のサンタバーバラ訪問の際、演説會場前で卒倒してその儘逝去された方の未亡人が、その時、お世話になったお礼だといって沢山のチキンを持って来て下さる。その贈物のチキンやら何やら彼やらの珍味佳肴で盛大なる午餐会を開く。席上、柄にもなく揮毫などをする。

 ここでいよいよ、高橋さんとお別れだ。
ロサンゼルスの約一ヶ月を、親身も及ばぬお世話下さって、なほここまで送り届けて下さったのだが、こヽから先に西川さんが送って下さる事になったので、いよいよ「さよなら」をいはねばならなくなった。本当に名残惜しい気がする。心からの感謝をこめて「サヨナラ」の握手を交す。

 午後三時、高橋さんたちは羅府へ、そして私と西田さんの一家はサンタマリアヘ。

    サンタマリア
 ロサンゼルスからサンタバーバラまでは高橋さんに、そして今はまたサンタバーバラからサンタマリアまで西田さんに自動車で送って貰ふ。私は、何だか、とうまる籠で宿場から宿場へ送られて行く、往時の囚人のやうな気がする。

 サンタマリアまで私を送って行くためには、西田さん一家は、どうしても一夜を目動車であかす準備をしなければならない。なぜなら、西田さんの子たちは明日も學校があるので、どうしても、その晩の中に帰って来なければならないからだ。そこで、西田さん御夫婦は帰り道に子たちを車内で寝かす準備をして出発された。

 美しい山峡の間を縫ふて、坦々たるハイウェーの上を私たちは運ばれて行く。二三十哩も来た頃には、陽が傾いて月が出た。人の子一人通らぬ山路の薄暗を衝いて、私たちの自動車は時速四五十哩も出したらう。

 かくて私たちがサンタマリアの街に這入った時には既に灯が点ってゐた。
 牧師大下康雄氏のお宅に落ちつく。小学一年に通學中の可愛いゝお嬢さんが、昔からの舊知のやうに歓迎してくれられる。お嬢さんの級友の白人のこども仲間で流行ってゐるのだらう、マニキェアの液を、私の爪に塗ってくれられる。

 「そんなものをおぢさんの爪にお塗りしたら、おぢさんがお困りになるからおよし」
 と母さんが仰有る。しかし、お嬢さんは面白がってせっせと私の不恰好な爪を粉飾してくれられる。私にお嬢さんのなすままにした。私の白い爪が、めのうのやうに次第に赤く光り出して来た。

 やがて講演をする時間が来た。此處まで送って来て下さった西田さんは、月光のある間に帰らないと、山道のドライブが危険だといふので引き返される。リレーレースがまた一組すんだ訳だ。リレーのチャンピオンよ。運ばれるパトロンはよろこんでゐます。

 日本人教会はバラツグ風ではあるが可成りに廣い。私は此處でも賀川先生の話をした。
同胞はいづれも自動車でやって来てゐたが、中には愛児を漣れて来て、講演の間、愛児を自動車内に寝かせて置いてゐるのもあった。

    ガタラロップ
   十六日
 眼をさますと、ピンクのカーテン越しに、乾燥した大気が冷え冷えと頬をかすめてゐる。
スパニッシュ風の建築の内部の壁に、青と白の単色で塗られて素朴そのものの如くだ。枕許の青い植木鉢を包んだ赤い紙が室内に妙に目立つ。

 朝飯を頂いてから、大下牧師の自動車で、サンタマリアから数哩離れたガダラロツプヘ出かける。ここは邦人の群居するところで、殊に野菜の産地として有名だ。

 此の地方一帯に住む邦人は三千人に達するだらう。ガタロップだけでも千六百人はゐる。
邦人の耕作反別は一萬エーカーの多きに達し、選挙権を持つ者も四五十人は居らうといふ。

 気候に恵まれて、一年中、何かしら耕作の仕事があるのは、此処の住民の大なる福音だ。まづ夏のレタースが最も金上りが多く、八、九月から翌春へかけては大蓼、スノーボール。十一月以降はカリフラワー。十、十一月はトマトといふ塩梅。特にカリフラワーの栽培は八割まで邦人の手になるといふことだ。

 しかし、此の地方の野菜栽培は昔から行はれてゐた訳ではない。八、九年前までは砂糖コーンの栽培地だったのが、相場の下落で、邦人が別に野菜を試作し出したところ、それが当ったといふのである。

 それで今日では一人で何百エーカーといふ廣い面積に亘って耕作してゐる邦人もあって、下働きにはヒリッピンやメキシカンを使用して大規模にやってゐる。

 邦人経営のキャンプも四箇所あって、八萬弗以上の資本を固定してゐるといふ。邦人経営キャンプは南氏のものが最も大きく、荒谷氏及びユニオンがこれに次いでゐる。南氏は三十年以前から此の地にあって、現在では二人のアメリカ生れの子供の名儀で土地も買ってゐるし、借地料として支彿ふ金額も年三萬五千弗に上って、年収は五十萬弗に達するといふ盛大さだ。

 私たちはこれ等の成功者の家を訪問して見たが、不在のため會ふことが出来す、わづかにその荷造場だけを見る事が出来た。

    野菜の荷造り

 ユニオン・キャンプでは荷造り場に貨車が引込まれて、邦人の男女の手で括られた人蓼や包まれたトマトがどしどしと貨車に積込れて行くのを見た。

 人蓼括りといっても、括り合せる人蓼のサイズが同一であることを必要とするので可成り六ヶしいらしいが、熟練した男女は器用にそれを揃へて、電光石火の如くそろへて行く。

 トマトの如き、私が時計で計って見ると、一分間に約六十五個の包みを拵へてゐた。これ等の荷造による収入は三年以前の好況時代には、一日に十弗以上にもなって、これがため邦人の子女は、SSも休んで働いたものだといふが、今日ではすっと下って、一日二弗位にしかならないといふことだ。
 それでも、アイスボックス附の野菜貨車は日々十八九輛も東部に動いて行くといふから素敵だ。

 カリフフォルニアの禿土を緑化したものは邦人であり、東部の白人にビタミンを供給するものもまた邦人だ。排日なんて、以ての外である。

    此處にも東京クラブ
 荷造り場を一巡して、ガタラロップの街へ出かける。停車場付近には商家が立ち並んでゐるが、その大部分は邦人だ。その中に一軒、「東京倶楽部」と記されたのは、加州のどの日本町でも見るのと同じ家の構えで、説明するまでもなく、邦人の賭博場だ。野菜作りや野菜くくりで稼いだ金を、一挙にして失ってしまふ場所だ。
 酒とバクチと女、この三つが、此の地方の邦人の生涯を暗くしつつあるのだ。

 「この辺の店で、秘密に酒を売ってゐないところは、マアないといって善いでせう。そして歓迎会とか送別会とかで、酒を出さぬ会合もまた絶無だといって過言ではないでせう。土瓶にだまされてコップを出すと、この国では売らぬ筈の酒であったといふ例は、此の辺ではザラに出くわすところです。仏教の坊さんは、善く悦んでこの涅槃湯を受け、また賭博場の寺銭献金を甘受するので、此の地方に数年ゐると、シコタマ懐が肥えるのです」
 と、大下牧師は悲憤の声をあげた。

 「でも、同胞がみなその方へ誘はれるといふ訳では勿論ありません。善良な人々は毎年多額の送金を故郷へしてゐますし、六千弗もするトラックカーを月賦ではあるが買い入れて、地道に働いてゐる人も少なくないです」

 牧師の話しを聞きながら、私は故郷遠く離れて来て営々と働いてゐる同胞の上に幸多かれと祈らずには居られなかった。

    小学校を見る

 ガタラロップからサンタマリアに引き返して、付近のハンコックの養鶏場を見る。驚くなかれ、六万の鶏を飼ってゐる。そして可憐なこの鶏の外には七面鳥もゐた。クリスマスにはその大部分がほふられるのだらう。

 付近にはまた、同じハンコック、ファウンデーション経営の航空学校があった。ハンコックはオイルの製造元だ。航空教育をすることは同時にオイルの販売拡張策でもあるわけである。

 去って、大下牧師のお嬢さんの通学して居られるグランマー、スクールを見学に行く。
 シューパー、インテンデント(市視学)が、校内を案内してくれる。各学年の教室の外に、電気や木工や機械の教室もあり、またブラスバンドの教室のあるのには、貧乏日本からの参観者は唯ダアとなるばかりであった。

 各学年の教室を覗いて見る。先生は悉く女教師で、日本からの参観者と聞くと「這入れ」といふ。生徒は日本のやうに行儀よくしてゐる者は稀で、頬杖をついてゐる者、後ろを向いてをゐる者、足を机の上に上げてゐる者など、など、千差万別である。さすが自由を愛するアメリカだ。教育まで自由なのかと驚く。

 上級のクラスでは、三方にある黒板の前へ全級生徒といっても十人足らずだが――を立たせて、先生のいふ英語を、西班牙語に翻訳して書かせてゐた。聞けば、外国語は欧州戦後、独逸語を小学校の課程から省いて、スペイン語と仏語とを課してゐるといふ。

 校長さんに会って、日本人第二世の成績はどうかと聞くと、言下に「グード」といって推奨した。これはお世辞でないらしい。

 大下牧師の話しでは、先般日本人の父兄が、教師を招待してスキヤキを御馳走しながら会談したが、非常に好結果を齎したといふ。スパニッシュ、スタイルの学校にも好感が持てたが、邦人に好意を持つ学校当事者には更に好意が持てた。

 かくして、南加の最後の日が暮れた。大下一家と楽しい晩餐を頂いてから、街の或る邦人洋裁店の店の間で、二十人近くの邦人のために、日本の状況について講演した後、夜中の十二時近く、大下牧師に見送られて、人気のないガタロップのステーションからひとり、桑港の汽車に乗った。

 寝室に這入って、所在なさに自分の手を見ると、大下牧師のお嬢さんが塗られたマニキュア液のために右手の爪だけが、処女のやうに紅色を呈してゐる。その滑らかなマニキュアされた爪を撫しつつ、私はいつか眠りに落ちて行った。

     (この号はこれで終わり)