賀川豊彦の畏友・村島帰之(153)−村島「アメリカ巡礼」(2)

   「雲の柱」昭和8年5月号(第12巻第5号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼(2)         羅府からサンタマリアまで
                           村島帰之
    
    (前承)
    モンテベロー
 夕方から約束によりモンテベローの植松三代作氏邸へ出かげる。例により、高橋常次郎氏のドライブである。

 植松さんは沼津の人。南加における邦人植木栽培業者中での成功者だ。モンテベローの邸内に堂々たる温室を持ってゐる外、シラバデラの丘陵地にも素哺らしい栽培地を所有してゐる。

 私たちはまづ暮れない内にといふので、シラバデラの畑の方へ行って見る。羅府から自動車でわづか二三十分の行程であるのに、気温が大分違ってゐる。ここでは椿を二十萬本あまり栽培してゐるとかで、苗木の上に樋のやうな鉛管を這はせて霧のやうな水を撒く装置がしてある。すべてが大仕掛けだ。椿の外に柳も七エーカー余り栽培してゐたことがあるといふ。

 植松さんはいふ。「植木屋は自然をあいてにしてゐる商売です。いはば神さまの直轄事業ですからね」と。

 再びモンテベローの植松邸に帰って、奥さんや子たちと一緒に食事を頂き、なほ植松氏撮影の映画を見せて貰ふ。パサデナの花祭の映画は殊に美しく出来てゐた。

 夜晩くなってから高橋さんと一緒に帰る。途中、ゴトゥヰンといふ富豪の家の前を通る。大きな家だ。庭の中に鉄道が引き入れてあって、主人が旅に出る時には、わざわざ停車場へ出かける面倒がなく、庭先から直ぐ汽車に乗れるといふ蒙勢さだ。

 しかし、それは善いとして、金を盗まれはしないかといふ懸念から、周囲の塀には高圧の電流を通した電線が張り巡らされてあった。何のことはない。富豪は、自分で作った牢獄の中に自ら入ってゐるやうなものだ。富豪は「自由」と「金」とを交換してゐるのだ。それが果たして幸福といふものだろうか。

   十三日

 いよいよロサンゼルスに別れを告げる日が近づいた。
 一個月近く住み慣れた地を離れるといふことは何としても佗しい。明から用もないのに、日本人街をあちらこちらと歩き廻って見る。

 常夏の國でも、さすがに十月の中旬だ。朝夕は少しく涼味を覚える。それに、これから北部へ旅をするのであって見れば、オーバーの必要があるが、自分は携帯してゐない。そこで、各教会や婦人会などから頂いた講演の謝礼で、記念のためにオーバーを買ふ事とし、静岡牧師に案内して貰って服屋に行く。サイズ別に沢山のレデーメードが並んでゐるので、自分の好みに合ったオーバーを見出すのに十分とはかからなかった。ついでに今日もまた古本屋を漁る。

 西田惣五郎氏から、沢山の蓄音機のレコードを頂く。令嬢幸子さんが、一々分類してくれられた。

    さよなら羅府
   十四日

 ニューヨークで集めたものは、ニューヨークからトランクに詰めこんで、その儘サンフランシスコに送っておいたが、ロサンゼルスヘ来てから買った数十冊の書籍が、またも荷厄介となった。

 そこで、これは、いずれ故国に向かってアメリカを去る時、高橋さんたちが見送りのため桑港まで自動車で出かけて来て下さるといふので、その時持って来て頂く事にして、自分は手廻り品を詰めたスーツケース一つを持って出発することにする。

 ロサンゼルスにおける最後の食事を高橋さんの部屋で頂く。思へば随分永くこの部屋のお客になったものだ。町子夫人や第二世ベレーさんとも泌々話す。ベレーさんは切手の蒐集をして居られるので、ハワイと日本の切手をお送りする約束をする。

 高僑夫人は、ホットケーキが私の太好物であることを知られて、ホットケーキを焼く道具を贈られる。高橋一家から受けた好意は生涯忘れることが出来ない。

 みなさんに送られて一箇月お世話になった合同教曾の門を出る。けふもまた高橋さんが自動車で送って下さるのだ。
 羅府の街よ、人よ、さよなら。
 自動車は羅府の街を離れて、やがて山路にかかる。そして約百マイルの道を三時間足らずでサンタ・バーバラ着。

     サンタバーバラ

 サンタバーバラは、すでに一度賀川先生と一緒に来たところだ。前回先生に白人のための講演に多くの時間を割当されたため、邦人に対する分はわづか二十分足らずに短縮されるに至ったので、実はその補足の意味で自分が再度此処を訪れることになったのだった。

 サンタバーバラは名にし負ふ山容水態共に美しき別荘地だ。アメリカの大金持ちがここに別荘を営んで、夏季はニューヨーク、シカゴの本邸から此処に暑さを避けるところだ。北は一帯の丘陵で、鬱蒼とした樹木が茂り、南は美しきビーチを隔てて、水清き太平洋が展けてゐる。

 或は広々としたビーチに、或は起伏しる丘に白く縫糸のやうに引かれた自動車道路の美しさ――私たちはエデンの園を行く心地で、ビーチから山手へ自動車を走らせた。

    電 車 の 失 業

 サンタバーバラは富豪の別荘地だけあって、自動車を持合せない家とては殆どなく、従って電車に乗る者などは至極稀なので電車会社が立ち行かない。のみならず、自動車を走らせるのには電車の存在が邪魔になる。そこで、サンタバーバラでは市内の電車を廃止することとなり、私たちが市中を走ってゐると、今しも、軌道を撤去中のところを見かけた。

 電車が失業してういるのだ。自動車の洪水なのだ。アメリカの機械文明といふものを泌々思はされる。私たちの自動車の止まったところは、シカゴの銀行家夫人の別荘であった。といって、銀行家の夫人に招かれた訳でなく、そこにガーデナー(造園客)として雇はれ住んでゐる西田さんの家に客となったのだ。

 西田さんの住ひは何エーカーといふ広い庭の片隅に建てられた家であるが、その銀行家の夫人といふのが年に一二度来るだけだから、何のことはないこの公園のやうな庭と家が西田さんの庭であり家でありするやうなものである。けふも勿論、その夫人は来てゐない。私たちはのびのびとした気持ちで庭園内を散歩することが出来た。

    ああ河田牧師

 夕方から日本人教会へ講演のために出掛ける。聞けばこの教会の入り口で一人の牧師が鮮血にぬられて倒れたのだといふ。

 これについて西田夫人が涙ぐみ乍ら話すところによると、河田牧師――この教会の若き牧師――は一人の暴漢からあらぬ怨みを買ってゐた。それは熊本生まれの堀田といふ酒飲みと、神奈川県出身の荒島浅蔵(四十七)といふ船乗上りの喧嘩を仲裁し、その時、荒島のため歯を折られて入院した堀田を、同牧師が匿ってゐるものと誤解し、牢獄を出たばかりの荒島が酒に勢いをかりて教会に強談にやって来た。そして型通り牧師を脅迫した末、同氏がこれを拒むや、携えて来たピストルを以て射殺したのである。牧師は歳わづか三十六歳であった。

 酒と賭博と女のトリオの植民地に、正しき道を説くことの如何に至難であることか。河田牧師は植民地伝道の尊き犠牲者であったのだ。

 河田牧師の遭難の話しを聞いた後、その尊い血潮にぬれたことのある石段を踏んで教会堂に入って行く時、私は身のひきしまるやうな思ひがした。

 教壇――そこにも河田牧師の足跡があらう――に立った私は、まづ河田牧師の犠牲を冒頭語にして、賀川氏夫妻の犠牲的生活について約一時間に亘って講演した。第二世たちも聞いてゐたが判ったかどうか疑問だ。この教会の第二世たちは非常に善良で、表彰されたこともあるといふことだ。

 晩くまで西田さんの客間で話した後、私は離れの部屋で寝る。芳子さんは私をもてなすために自分の部屋をあけてくれたのだ。芳子さんはおとなしいお嬢さんで、小学校を卒へたら看護婦学校へ這入って、病人のために生涯を捧げるのだといって居られる。尊い志しだと思ふ。

     (つづく)