賀川豊彦の畏友・村島帰之(152)−村島「アメリカ巡礼」(1)

  「雲の柱」昭和8年5月号(第12巻第5号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼(1)         羅府からサンタマリアまで
                           村島帰之

    羅府少年審判

   十月十三日
 午後から教会聯盟社會部の斉藤さんの案内で、高橋さんや久保田さんや徳武義さんと共に、羅府の郊外にある少年裁判所及びデテンション(監護)ホームを見學に行く。

 威めしい嫌がある詳でもなく、清楚なオフィスである。少年裁判の本家本元のやうにいはれてゐるアメリカのそのまた十大少年裁判所とかの一つといはれるだけに、設備の整頓は驚くばかりだ。

 ここで取扱はれるものは犯罪少年のみではなく、遺棄状態にある少年や不品行な少年も含まれてゐて、こゝで審問した後、これを少年審判所法によって處分すべきものか、どうかを決定するのだ。

 審判室は極めてこぢんまりとしてゐて、周囲の壁にも寫真などが張ってあって、少年少女をして少しも怖れを抱かしめないやうにしてあることは、バンクーバーで見たのと同一型だ。

 私たちは、少女や年弱の少年を審理する婦人の審理官の二人に会って、此処へ送られて来る少年少女の話を訊いた。その中で最も驚かされたことは、年少にして既に花柳病にかかってゐるこどもの多いことである。

 ここへ来る少年少女の半数はそれだといふ。アメリカの青少年の風紀の頽廃の様は窺はれた。「日本の二世にもそんなのがありますか」と訊くと、ぼちぼちあるといふ返事だ。その一例として、某といふ十五歳とかになる日本人の娘さんが、風俗上いかがわしい所があって此処へ送られて来たが、既に貞操を失ひ、剰へ性病に感染してゐたといふ話。

 「日本の第一世は犯罪率が低いが、第二世はぼちぼちあるやうです。女の子は今話されたやうな風俗上の点でありますし、男子のは、小切手詐欺で………」
 と同行の斉藤さんが、そっと話てくれた。

 かねがね、日本の第二世には不良児が多いといふことを聞かされてゐたが、不幸にして少年裁判所で裏書きされて了った。親の大一世に教養がなく、なまじにアメリカの教育を受けた第二世は親を尊敬する気にならないのだ。そしてその結果が、放縦に流れて、男女ともに不良になって了ふのである。さらばえし第一世たちの心の中を思ふと、感慨なきを得ない。

 なほ審理の進行中、逃亡の惧れのある者や家のない者、たとへあっても家庭の善くない者などは、一時此處に監護されることになってゐるが、そのわづかの間でも教護をゆるがせにせぬやうにと、いろいろと勉学の設備もしてあるし、その期間を利用して性病を治療する設備も出来てゐるのはさすがだ。

    デテンションホーム

 去って別棟になってゐるデテンションホームに行く。これは日本における少年保護所に相当するものである。審判の結果一定期間監察の下に置く必要ありと認められた者が収容されるところだ。

 少年の部屋部屋は一つも飾りらしいものはないが、いづれもサッパリとしてゐて、椅心地がよささうだ。医療設備も図書室も立派だし、炊事場は立派なもので監置されてゐる。

 炊事婦は、アイスボックスの中まであけて見せてくれた。
 教室を見るといづれも女の先生が個人教授式に教へてゐたが、參考書の棚を見ると、日本に関するものも二三見えた。

 すると、一人の女教師は、一つのパンフレットを私に示した。それは、ここの印刷工場で刷ったものらしく、表紙には鳥居の画を描いた上に Konnichiwaと記されてあるではないか。
 「これはどういふ意味か」
 と私に訊くので、私は How do you do といふ意味だと答へた。

 日本に對して関心を持ってゐることはうれしかったが、それが普通の學校などでではないだけに、余計に面白い気がした。
 作業場はいづれも小さな町工場位にあらう。印刷工場では雑誌や単行本を刷ってゐた。機械工場では飛行機や自動車をさへ作ってゐた。

 プールには美しい水が満々とたたへてあった。離れのやうな一室では、ブラスバンドが、一人の教師によって練習中であった。
 すべてが、小学校――それも最も整頓した――のやうである。

    逃亡少年の留置室

 庭は何十エーカ−といふ広さである。樹木も茂ってゐるし、青々とローンも生えてゐる。言って見れば、マア、大富豪の庭園のやうだ。刑務所といったやうな感じは微塵もない。逃げやうと思へばいくらでも逃げ出せやう。現に逃亡する少年も相当ある様子だが、ラヂオが発達してゐて、逃亡少年があると、直ぐその人相などを放送して警官に知らせるから、大概は直ぐ捕って了ふといふ。

 「あれを御覧なさい。あそこで黄色い着物を着て土木工事をしてゐる少年の群れを。あれはその逃亡して捕って来た少年たちですよ。逃亡の懲罰として労働を強制されてゐるのてす。外のこどもはラヂオを聞いたり、その他娯楽を取ることが出来ますが、あの児たちだけは一定期間、独房に監置されて、自由と娯楽から隔離されてゐるのです。」
 と、教誨史が説明してくれる。

 見れば多くの年長児に交って十歳位の少年が、モッコのやうなものを荷負ふて土運びをしてゐる。私はいじらしい気がせずには居られなかった。家が恋しくなって逃亡したのだらうと想像したからだ。

 ホームと別棟になって、その逃亡少年を入れる監置場かある。窓が小さくて、内部も暗い。覗いて見ると簡単な寝所があるだけだ。なるほど、ここだけは、どうやら刑務所のやうな感じがする。
 私ちちは、なるべくそのこどもたちの方を見ないやうにして通り過ぎた。

 徳武義氏は元少年審判所教官だっただけに、綿密に視察せられるので、遅れ勝であった。

     (つづく)