新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第13回)





         爽やかな風


     −宗教・人権・部落問題ー


               (第13回)


   第4章 部落問題の解決と賀川豊彦(1)



 前章で省察したように、部落問題解決の見通しが明確になる1980年代になり、宗教界の「部落問題フィーバー」という過熱が起こります。それに呼応するようにして、本章で取り上げる所謂「賀川問題」が大きく浮上してまいりました。


 わたしにとってはこの問題は非問題としてしか捉えられないものでしたが、この問題の解決に向けて「賀川豊彦と部落問題」に関する三部作(『賀川豊彦と現代』(1988年)、『賀川豊彦再発見』(2002年)、『賀川豊彦の贈りもの』(2007年))が誕生してきてしまったというわけです。


 ここに収める作品の初出は、2005年2月発行の『賀川豊彦学会論叢』第14号ですから、わたしにとってはより新しい省察論攷となります。

 
    はじめに


 周知のように賀川豊彦は、労働運動や農民運動、協同組合運動や社会福祉活動など多分野にわたる「社会運動家」でした。また日本国内はもちろん諸外国における講演活動並びに膨大な著作活動に没頭した「社会教育家」「文明批評家」でもありました。


 しかし「賀川豊彦社会運動家であり社会教育家・文明批評家であった」といっても「賀川豊彦の全体像」(2) を捉えたことにはなりません。彼の「人と生涯」は、武藤富男氏のあげる『賀川豊彦の六面』(キリスト新聞社、昭和40年)をもってしても、もちろん十分ではありません。


 いま関係者のあいだで、賀川豊彦が1909(明治42)年12月、神戸の「葺合新川」で新しい生活を開始したときから数え、まもなく100年を迎えることから、「賀川献身100年」に関わる多彩な記念事業が企画されつつあります。


 そして最近では、雨宮栄一氏の労作『青春の賀川豊彦』『貧しい人々と賀川豊彦』『暗い谷間の賀川豊彦』が相次いで新教出版社から刊行され、さらにロバート・シルジェン氏の『賀川豊彦 愛と社会正義の使徒』(賀川豊彦記念松沢資料館監訳・イエスの友会訳)の日本語版も、同じく新教出版社から近く刊行(2007年4月頃)の運びとなり、日本における賀川研究もさらに大きく進展する兆しを見せています。


 ところで、賀川豊彦のあの「新川入り」の志しの中には、ここで取り上げる「部落問題の解決」という企図が、自覚的主題的に存在していたわけではありません。彼にとってはただ「イエスの精神を発揮してみたい」という企図、その自覚と志しに強く促されたものであったことは、広く知られているとおりです。


 彼は、想像以上の厳しい現実に遭遇し、困窮のなかで生きる人々と直に出合いました。そして解決すべき多くの難題に挑戦しつつ、悪戦苦闘を積みかさねた、波乱に満ちた生涯をおくりました。


 しかし、わたしのひそかに確信するところでは、賀川豊彦の「新川入り」を皮切りにした、神戸における疾風怒濤の日々そのものは、わたしの目にはやはり「部落問題の解決」の働きと決して無縁のことではなかったことを、おもい知らされるのです。


 わたしは賀川豊彦を直接知らない世代です。このたび賀川豊彦・松沢資料館館長に就任された加山久夫氏も、2005(平成17)年4月に頂いた挨拶状に「生前の賀川豊彦先生と出合うことのなかった私が」とお書きですが、わたしも同じく「ご縁があって」没後の賀川豊彦と、著作その他をとおして親しく出合うことになったのです。


 1960(昭和35)年4月、賀川豊彦が71歳9ヶ月の波乱の生涯を閉じたとき、わたしは牧師を目指す同志社大学神学部の学生でした。以来、早くも賀川豊彦没後46年の歳月が過ぎました。


 別稿「賀川豊彦 没後40余年」は誠に不十分なものですが、「没後の賀川豊彦」と親しく出合うことのできた「感謝の思い」を、「私的ノート」のかたちで書き上げたものです。(3)


 この半世紀におよぶ期間は、日本社会に根強く残されてきた部落問題が、法的措置をともなって集中的に解決されていった激動のときであり、個人的にも多くの得がたい貴重な経験を重ねる日々となりました。


 ここでは「部落問題の解決と賀川豊彦」の主題のもとに、賀川が生きた明治末から大正・昭和戦前期の時代状況のもとで、彼の果たした役割や問題点について、率直に私見を記してみたいと思います。


 この主題については、これまでいくつかの著書と論文を発表してきました。もともと「部落問題と宗教」という主題は、わたしにとって青春時代からのライフワークのひとつでしたが、「賀川豊彦と部落問題」に関して本格的に公表しはじめたのは、いわゆる「賀川豊彦と現代教会」問題がクローズアップされて以後のことです。


 それは丁度「賀川生誕百年」(1988年)に当たる年で、すでにあれから20年近くも経ていますが、いまは絶版になっている『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所)という書き下ろしが最初の作品でした。そしてあの作品以後の論稿のなかから選び出して、2002(平成14)年秋に『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』(創言社)をまとめ、この問題の経過などに触れておきました。


 ここでは、これまでに発表した内容に加えて、出来るだけ新しい知見を入れてみることにいたします。


 早速、つぎの三つの柱を立てて本題に入ります。第一の柱は、賀川の活動拠点となった「神戸の『被差別部落』と賀川豊彦」について取り上げます。つづいて第二には「賀川豊彦と部落解放運動」について、最後に「賀川豊彦の部落問題認識」について、という順序です。


   第1節 神戸の「被差別部落」と賀川豊彦


 神戸には近年まで大規模な「都市部落」が数多く存在していました。なかでも賀川が主たる活動拠点として深い関わりをもった「葺合新川」と「長田区番町」は、その形成過程は異なりますが、いずれも日本を代表する「都市スラム」もしくは「被差別部落」として注目を集めてきた場所でした。


 現在は神戸市内でも同和対策事業がすべて完了し、1995(平成7)年1月の阪神淡路大震災の復興から早くも12年を経過したいま、かつての「スラム」や「被差別部落」としての面影を残すことはありません。


 賀川没後3年目(1963年)、「葺合新川」に完成した「賀川記念館」は、いまも「イエス団」本部がおかれ、「神戸イエス団教会」「友愛幼児園」「特別養護老人ホーム・真愛ホーム」と緊密な連携のもとに、独自な隣保館活動を展開しています。また、わたしのいま居住している長田区番町地域でも、「イエス団」関連の「神視保育園」と「天隣乳児保育園」が意欲的にその使命を果たしつづけています。


 1 神戸の「被差別部落


 賀川豊彦が生きた1900年代後半の日本における「部落問題」は、島崎藤村の処女作『破戒』(緑陰叢書第壱篇、1907年)で描写されたように、日本の封建的身分差別の残滓として根強く存在していた「差別的偏見」とともに、『神戸新聞』に連載されたふたつのルポ『貧民窟探検』(1906年12月)『師走の新川生活』(1907年12月)などで報じられたような、厳しい「差別的生活実態」が顕在化していました。


 そして、外から観察したルポとは比較にならない生々しい実態の記述は、賀川自身が1909(明治42)年に身をもって経験するなかで書き上げた雑記帖などの『賀川豊彦初期史料集』(1991年、緑陰書房)や、学術研究書として知られる『貧民心理の研究』(1915年、警醒社書店)等に書き残されています。


 神戸の「被差別部落」の成立とその歴史的経緯について、ここで詳しく言及できませんが、すでに布川弘氏の研究などにおいで、右の地域は1892(明治25)年には俗称「百軒長屋」が政策的作為的に「木賃宿営業区域」に定められたこと、さらに1899(明治32)年には「二百軒長屋」と膨れあがった木賃宿群は「集中移転区域」に指定され、劣悪な「貧民の巣窟」が形成されていったことなどが知られています。(4)


  2 賀川の「新川入り」とその働き


 「共に生活すること」 雨宮氏の前掲『貧しい人びとと賀川豊彦』(2005年、新教出版社)の大正期の賀川豊彦に関する幅広い歴史的考察にもあるように、賀川の「思想と生涯」を特徴付けた最大のものは、まず何よりも「新川入り」の出来事にありました。「イエスの心」を証しするため、学生の身であった賀川は、病苦をおしてこの現実のただ中に身を置き、「本気で生きる」ことを始めたのです。「神への賀川の献身の出来事」のスタートです。


 まだ記憶に新しい「賀川豊彦生誕百年」の1988(昭和63)年に製作されたNHKテレビ番組「賀川豊彦って知っていますか」の中で、賀川純基氏が指摘していたように、「賀川豊彦の働きの最も大切なものは、一等まずそこに暮らす人と共に生活し、人々のお世話をすること」でした。(5)


 賀川の「新川入り」の日々の出来事は、彼の残した雑記帳『雲の柱 露の生命』(1910年)『感謝日記』(同年)『心の日記』(1912年)『溢恩記』(同年)などに、つつみかくさず書き込まれています。
 まさに賀川自身の「露の生命」の日常は、「雲の柱」をもって導かれる、無条件の恩寵の溢れであり、「溢恩記」「感謝」の日々そのものであったことを知ることができます。


 そしてこの賀川の「感謝即苦闘の日常」こそが、彼自身において「部落問題解決」の最も基本的な働きであったことを、わたしはここで先ず冒頭に強調しておきたいと思います。


 「救霊団」「イエス団」の働き 事実ここから、あの初期の「救霊団」の諸活動――「伝道」「無料宿泊所」「病者保護」「医薬施療」「無料葬式執行」「生活費支持」「児童愛護」「家庭感化避暑」「避暑慰安旅行」「職業紹介」「裁縫夜学校」「一膳飯天国屋」「クリスマス饗宴と慰安会」など――が取り組まれていくのです。


 米国留学から帰国後(1817年)の「イエス団」(初期「救霊団」の改称)の諸活動――「無料巡回診療」「夜間学校」「歯ブラシ工場」「口入所」「友愛救済所」など――に見られる賀川の働きの新展開、さらに「『新神戸』(後『労働者新聞』改題)創刊」「共益社・神戸購買組合・灘購買組合」「イエスの友会」「日本農民組合」「大阪労働学校」など、国内外へとその活動の広がりを見せていきました。(6)


 いうまでもなく、明治維新以後の「部落問題」も単に「部落問題」だけが孤立して存在しているのではありません。その成立のはじめからして、日本の封建的身分制度のなかに仕組まれて生きつづけたものであり、「部落問題」はその遺制として存在した問題です。


 したがって、賀川が意欲的に開拓していった上記の多様な組織的諸活動はすべて、「部落問題の解決」と決して無関係にあるのはありません。あとで取り上げる予定の「全国水平社」の運動も、協同組合運動・労働運動・農民運動などと密接不可分の関係をもって展開されていったものでした。


 賀川豊彦の著作活動 ところで、賀川豊彦は「救霊団」および「イエス団」における波乱万丈の生活のただ中にあって、日々探求的研鑽の意欲を欠かさず、「研究」と「著作活動」を怠りませんでした。


 前記の『雑記帳』とは別に、自ら発行する『救霊団年報』をはじめ『神戸新聞』その他各種の雑誌・研究誌への寄稿とともに、『友情』(1912年、福音舎書店)『預言者エレミヤ』(1913年、福音舎書店)『基督伝論争史』(同年、福音舎書店)など、矢継ぎ早に著作を発表していきました。


 そして賀川は、654頁にもなる大著『貧民心理の研究』を留学前に書き上げ、帰国後にも更なる学術的大著『精神運動と社会運動』(1919年)およびその続編『人間苦と人間建築』(1920年)などを警醒社書店で刊行しています。


 時を同じくして、詩集『涙の二等分』(1919年、福永書店)『労働者崇拝論』(1919年、福永書店)散文詩『地殻を破って』(1920年、福永書店)『主観経済の原理』(1920年、福永書店)など驚異的な出版ラッシュがつづくのです。


 個人雑誌『雲の柱』も警醒社書店より1922(大正11)年元旦から創刊されますが、何といっても賀川豊彦を世界に知らしめたものは、神戸時代の代表作である小説『死線を越えて』(1920年、改造社)『死線を越えて中巻・太陽を射るもの』(1921年、改造社)でした。


 『死線を越えて下巻・壁の声きく時』(1924年、改造社)は神戸を離れてのち出版されていますが、『星より星への通路』(1922年)『生存競争の哲学』(同年)『空中征服』(同年)『雷鳥の目醒むる前』(1923年)などは改造社から、『イエスの宗教と其真理』(1921年)『人間として見たる使徒パウロ』(1922年)『生命宗教と生命芸術』(同年)『イエスと人類愛の内容』(1923年)『イエスの日常生活』(同年)『イエスと自然の黙示』(同年)は警醒社書店から、そして『聖書社会学の研究』(1922年)は日曜世界社から、いずれも神戸の「貧民窟にて」仕上げられた著作群です。(7)


 賀川豊彦の講演・伝道活動 賀川豊彦は「21歳の時に蓄膿症の手術を受けて、鼻腔に穴を穿ち、大正11年2月悪漢に門歯2枚を歯根まで打ち折られて以来、講演をするに、いつも生理的の不愉快を感じている。それで、演説はどちらかといえば嫌ひである。ただ要求せられる儘に、やむを得ずしてして来た」(『賀川豊彦氏大演説集』1頁)という数多くの「講演」や「座談」は、神戸時代では主として吉田源治郎・黒田四郎・村島帰之らの手によって筆記・整理され、上記の多くの著作として出版されました。


 因みに、関東大震災以後には、今井よね・鑓田研一・吉本健子・山路英世といった人々が筆記・整理にあたり、多くの労作が日の目を見ることになったのでした。


   付記Ⅰ 住宅を中心とする環境改善の課題


 「貧民窟の破壊」 賀川豊彦にとって当初から切実で重大な関心事となっていたものは、何と言っても住宅を中心とした環境改善の願いでした。1918(大正7)年5月の『救済研究』で「日本貧民階級の住宅問題」を発表し、同年7月には日本建築学会に招かれて「貧民窟の破壊」と題する講演を試みています。


 そして翌年5月には同じ『救済研究』で「神戸市の住宅問題」を掲載しており、それらの内容からみても、賀川の尋常ならざる熱意がうかがえます。


 また、1920(大正9)年10月に『死線を越えて』が出版される5ヶ月前、賀川豊彦の妻・ハルの名著『貧民窟物語』が「社会問題叢書」のひとつとして福永書店で刊行されていますが、その中で賀川ハルは、つぎのような注目すべきことを記しています。


 「貧民窟に対して従来は単に金銭物品の施与を以って貧民を救はんと致しました。勿論眼前の貧困はその慈善に待つでありませうが、これが根本の防貧策としては、住宅が改良され、彼等に教育なるものが普及され、飲酒を止めて風儀を改め、趣味の向上を計るなどこれら、貧民窟改良事業を、労働運動に合わせて行ふ時に、今日の一大細民部落の神戸から跡を絶つに至ると信じます。私は神戸市民の覚醒により、貧民窟が改良される具体的の改造を、切に願ってやあまない次第であります。」(8)


 「不良住宅地区改良法」「共同住宅」の建設 しかし、賀川豊彦の念願が実際に国のレベルで具体化に向けて論議が開始されるのは、関東大震災の救援活動で家族あげて東京に居を移してからのことです。


 政府は1924(大正13)年4月に「帝国経済会議」という諮問機関を設置し、その委員に賀川を委嘱しました。そしてその中の社会部会特別委員会の5月24日の会合で、賀川は「住宅供給策私案」を準備し、つぎのような「理由」を朗読しています。 


 「住宅供給ノ方策ニ三ツノ方法ガアル。第一ハ公営主義。第二ハ組合主義。第三ハ会社主義ノ三デアル。其中無産階級ノ住宅供給ノ為ニハ公営主義ガ最モ適当デアル。」「無産階級ノ住宅ハ社会政策ノ下ニ建築セラレナケレバ資本ト利潤の関係上経営ハ困難デアリ社会政策ノ下ニ直ニ実行ヲ必要トスルモノデアルカラデアル」


 賀川は更にこれにつづけて、「公営主義」にするための方法や「大都市不良住宅改善」などに言及しています。彼はそのとき、椎名龍徳の『生きる悲哀』、村島帰之の『ドン底生活』のほか自分の作品『貧民心理の研究』『精神運動と社会運動』『死線を越えて』などを抜粋したパンフレットをつくるなど、意欲的な活躍をしています。(9)


 こうして、賀川の原案はいくらか修正の後、帝国経済会議において「不良住宅地区改良法」が採択され、ついに1927(昭和2)年3月に法律一四号として制定、7月に施行されていくのです。


 神戸市はこれをうけて急遽、その第一の事業として「葺合新川」の改良計画に着手し、法に基づく「地区指定」の申請を翌年1月に内務大臣宛提出します。しかしこれが認められるのが1930(昭和5)年10月になってからで、翌年5月に漸く事業認可となり、7月から事業着手しました。


 この事業に関連する神戸市の行政資料の多くが現在でも残されていますが、1932(昭和7)年5月19日付の『神戸又新日報』には、「やがては神戸第一の文化住宅街! 新川スラムの改良事業 希望輝く大工事」とか、「おゝ素晴らしい新川アパート街」とする完成予想図を入れて、「改善事業が完成して面目を一新した時の新川スラム、賀川豊彦氏によって世間に紹介せられた有名な新川不良住地域は、斯くも堂々たるアパート街となるのだ」と、大きく報じられています。そして翌年6月、近代的な「アパートメントハウス」の一部が竣工していきます。


 その後1935(昭和10)年までに、鉄筋住宅326戸と木造住宅60戸の建設がおこなわれますが、おりからの戦時体制の強化によって、当初計画の約半分が達成されたにとどまらざるを得ませんでした。


 賀川はそのとき、この「共同住宅」の建設に触れて、つぎのように書いています。


 「こんどいよいよ神戸の貧民窟も二百五十万円の資本金で、立派なセメントコンクリートの労働者アパートに立てかはることになった。これは前の若槻内閣の時に通過した六大都市不良住宅改良資金が廻ってきたのである。この議案を議会に追加さすとき『死線を越えて』の一部分が参考資料として議会内に配布せられたのであった。それで『死線を越えて』がその貧民窟を改造する糸口になったことを神に感謝しないわけにいかない。『死線を越えて』を発表してから今年で満一三年目である。そしてその『死線を越えて』によって、貧民窟がうちこわされるのを見て私はうれしくてたまらなかった。そのまたセツルメントの主任に私が貧民窟で最初教えた夜学校の学生である武内勝氏が主任として、就任せられるやうになったことは、殆ど奇跡的にも考えられる。」(『雲の柱』昭和7年3月)


 「そして新見の住んでいた神戸葺合新川の汚い家が破壊せられ、その代わりに鉄筋混凝土(コンクリート)の四階建ての御殿のやうな家がそこに実現した。それを見た新見栄一は、貧民窟を改造しようとした多年の祈が聴かれたことを、心より神に感謝した。」(『石の枕を立てて』97頁〜98頁)


 戦争によって神戸のこの地域も焼け野原になるのですが、鉄筋のこの「共同住宅」は焼失を免れ、その後も文字とおり「屋上屋」を重ねる都市スラムの象徴ともなるかたちで、そのまま放置され続けました。


 漸く1969(昭和44)年から始まった『同和対策事業特別措置法』にもとづく環境整備事業の進捗によって、この地域も他の地域と同様に「新しいまち」へと変貌をとげ、あの「共同住宅」もその姿を消していったのです。


 このような「環境改善事業」や「社会改良事業」は、賀川豊彦にとって基本的な関心事でしたが、戦前の部落解放運動である全国水平社の場合、すぐ後で取り上げるように、運動の主眼はあくまでも「徹底的糾弾闘争」におかれていたこともあって、こうした地道な日常的諸活動は正当な評価を得ることはありませんでした。むしろこのような取り組みは「融和運動」のかたちとして、逆に批判的な扱いが行われてきました。


     付記2 実態把握の基礎作業の草分け


 ひとつここで強調しておきたいことがあります。それは、「新川入り」の当初より、覚めた目で現実をみつめ、問題解決のための基礎作業ともいえる「実態把握のための実証的研究」を開拓していった賀川豊彦の仕事の意味についてです。


 わたしたちは、神戸市の同和対策事業が本格化する1974(昭和49)年春、「神戸部落問題研究所」(10) を創立し、主として神戸市内同和地区の総合的な実態調査に力を注いできました。この経験のなかで「部落問題の解決」において不可欠な仕事は「実態の実証的研究」であることを学びましたが、賀川豊彦は当初からその目を備えていたという点です。


 もちろんその手法や視座には時代的な限界を持つものですが、神戸における部落問題解決の実証研究の歴史において、賀川豊彦の果たした開拓的な仕事は、一定の評価を得ていることは言うまでもありません。


 以上、「神戸の『被差別部落』と賀川豊彦」について概観してみました。賀川豊彦が神戸の「被差別部落」に身をおいて、多くの著作や旺盛な講演活動を通して展開していった果敢な叫びと働きは、広範な大衆的支持と共感を生んでいきました。


 このことは当然のことながら、つぎに見るように、「被差別部落」の青年たちの解放を願う切実な思いとも共鳴しあって、賀川豊彦との深い交流も始まって行くのです。


 〔1923(大正12)年9月1日の関東大震災が起こるとすぐ、賀川豊彦はこれの救援のため木立義道や深田種嗣らとともに上京し、10月には活動の拠点を東京・本所に移しました。そして、神戸における諸経験を生かして、新しい取り組みが展開されていきます。無料宿泊所や託児所を開設し、すでに帰国して神戸で働いていた馬島福医師も参加して、無料診療所も始めています。賀川ハルらも、覚醒婦人協会のメンバーと共に布団など救援物資を集め、東京へ届けるなどの働きをおこない、結局、賀川は妻子と共に神戸を離れ、1924(大正13)年4月からは、東京市外の松沢村へ移住することになるのです。〕


                


1  本章は、2005年7月2日、明治学院大学白金校舎において開催された公開講座明治学院大学キリスト教研究所「賀川豊彦」と賀川豊彦学会第18回研究大会共催)のための草稿(同年12月刊行の『賀川豊彦学会論叢』第14号所収)に、部落問題研究所の研究紀要『部落問題研究』編集部の依頼を受けて補正を加え、2006年10月発行の177号に発表され、さらに本書収録に当たり補筆を施した。
2  神戸学生・青年センター編・発行の『賀川豊彦の全体像』(1988年)の書名。
3  この拙稿は、第一章にコメントのとおりであるが、本稿は『雲の柱』19号(賀川豊彦記念・松沢資料館、2005年2月)にも補正を加えて掲載された。なお、『賀川豊彦学会論叢』第13号には同じ主題による学会報告をまとめた別稿を掲載している。
4  布川弘「資本主義確立期の都市下層社会と部落―神戸「新川」を中心に」(『部落問題研究』第95輯、1988年)、同「神戸『新川』の生活構造に関するノート」(部落問題研究所編『近代日本の社会史的分析―天皇制下の部落問題』所収、1989年、248頁以下)、同「近代の社会的差別」(1995〜2005まで兵庫人権問題研究所発行の『月刊人権問題』で65回に及ぶ不定期連載)など参照。また、布川氏は2005年3月、神戸で開催された「イエス団施設長会議」での第1回賀川研究会で「救霊団の成立とその事業―賀川の『新川』における救済事業」と題する講演を行った。
5  賀川純基氏のこの詳しい展開は、2004年7月の賀川豊彦学会第17回研究大会において「賀川豊彦の視野」と題する記念講演の中で行われた。惜しくも同氏はその後急逝され、この記念講演の記録は「賀川純基追悼号」となった『賀川豊彦学会論叢』13号に収められた。
6  公開講座で報告の折は、大正7年6月8日付『大阪朝日新聞・神戸付録』の兵庫県救済協会の「口入所」の記事並びに大正10年7月21日付『毎日新聞兵庫県付録』の間島医師一家の記事を配布したがここでは割愛した。
7  横山春一氏の『賀川豊彦伝』(警醒社、昭和34年)では、「神戸時代」とは言わずに「貧民窟時代」としてまとめられている。因みに、前掲雨宮著『貧しい人々と賀川豊彦』では本文全体にわたって「貧民窟」という用語の殆どに「ママ」のルビが付されているが、この場合、歴史的用語であるのでルビは無用と思われる。
8  賀川ハルは賀川の影に隠れて表に出ることは少ないが、彼女は賀川と結ばれる以前から彼と共に地域での救済活動に取り組み、同時に社会運動にも積極的に参加し、1921(大正10)年3月には「無産婦人の解放」をかかげて、長谷川初音らとともに「覚醒婦人会協会」を結成、月刊『覚醒婦人』を刊行し、ゴム女工の争議支援や婦人労働組合の組織化にも乗り出している。そして1923(大正11)年4月にはあの『女中奉公と女工生活』を同じ福永書店で発表している。
 加藤重の好著『わが妻恋し―賀川豊彦の妻ハルの生涯』(1999年、晩聲社)は、夫とともに歩んだその働きを見事に描きあげている。神戸の「賀川記念館」は2009年の「賀川献身100年」に向けて再建の準備が進められているが、新たな記念館の名称は、夫妻の働きを憶えて「賀川豊彦・ハル記念館」と改めてみるのも面白いのではないかと考えるがどんなものであろうか。
9  これは1927(昭和2)年1月に社会局社会部から『不良住宅地区居住状況の一斑』として印刷に付されている。また自伝小説『石の枕を立てて』(1939年、実業之日本社)の「風の吹き廻し」の項で、彼はこのときの委員会での発言を、次のように書いている。
 「六大都市の家屋の約一割が不良住宅地区と考えてよいと思いますが、その不良住宅を全部一度に改造するとなると、相当な金が要りますが、内務省が二千万円、地方の自治体がそれにいくらかの金を加えてやる気を出せば、十分、所謂貧民窟は改造出来ると思います。』(95頁)
10  「神戸部落問題研究所」は、当時すでに部落問題研究の分野でも多くの業績を重ねていた神戸大学の杉之原寿一教授を中心に、民間の調査研究機関として創立された。その後「社団法人・兵庫部落問題研究所」に発展し、さらに現在「社団法人・兵庫人権問題研究所」と名称を変更して調査・研究活動を継続している。