「賀川豊彦と現代」(第14回)(絶版テキスト化)




  賀川豊彦と現代(第14回


  絶版・テキスト化


       Ⅳ 胎動期の開拓的試み(1)


     ニ 労働運動・消費組合運動・普選運動


            3 神戸購買組合


 関西の労働運動の中心的役割を担いつつあった彼はまた、新しく「消費組合」づくりの構想を練りはじめます。


 米騒動に見られたような消費者無視の暴挙を許さないためにも、生産者と消費者を結ぶ互助組織をつくる必要性を訴え、今井嘉幸らの共鳴者も得ていきます。


 そして一九一九(大正八)年七月には、まず大阪に「購買組合共益社」を設立するのです。これは、小さな店舗で毎月損失ばかりの試みでしたが、彼はこれの運営に多大の情熱を傾けました。


 翌年三月には株価の大暴落で、新川の木賃宿も失業者であふれます。そんな中で彼は、神戸でも「購買組合」の創設を志します。当時すでに、川崎造船所の労働者たちによって「奸商征伐期成同盟」という組織がつくられていましたが、同造船所の職工・青柿善一郎(注1)らはこれを発展させて「川崎購買組合」の設立計画も始められていました。


 こうした気運にも乗って、職域・企業をこえた幅広い市民の組織として、新しく「神戸購買組合」を同年一〇月に発足させます。創立時の事務所は、新川のイエス団に置かれ、賀川・青柿をはじめ、福井捨一、今井嘉幸、岡成志、木立義道(注2)、長谷川初音、賀川ハル、志賀志那人、馬島福、村島帰之(注3)、久留弘三らが発起人に名を連ねています。産業組合法による購買組合としての認可は一九二一(大正一〇)年四月ですが、同年五月には住吉村に「灘購買組合」が創設され、賀川はこれの顧問にも就くことになります、こうしてその後の消費組合運動の大きな発展の基礎を築いていくのです。〔一九六二(昭和三七)年四月には「神戸」と「灘」が合併して、今日の「灘神戸生協」が誕生しています。〕





(注1)青柿善一郎(一八八七〜一九七五)
 奈良県吉野郡生まれ。一九一七年川崎造船所に入り、同時に友愛会に人会。川崎・三菱大争議では指導的役割を担い、争議後は総同盟神戸連合会主事となり運動の再建につとめた。
(注2)木立義道(一八九九〜一九七九)
 神戸購買組合設立のとき参画し、上京後江東消費組合、中ノ郷質庫信用組合、東京医療利用組合などの創立に加わる。
(注3)村島帰之(一八九一〜一九六五)
 奈良県桜井市生まれ。一九一四年早稲田大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。一九一九年神戸支局に移り友愛会の活動家と深交を持ち、賀川に深く傾倒した。