「賀川豊彦と現代」(第13回)(絶版テキスト化)
賀川豊彦と現代(第13回)
絶版・テキスト化
Ⅳ 胎動期の開拓的試み(1)
二 労働運動・消費組合運動・普選運動
1 友 愛 会(注1)
さて、米国の労働運動の実際にもふれて帰国した賀川は、地域の中での救済活動や失業対策の取り組みに加えて、さらに新しく労働組合運動に強い意欲を持ちはじめます。
当時の日本の労働組合運動はまだ創草期で、一九一二(大正元)年に鈴木文治(注2)らによって友愛会という組織がつくられ、労資間の紛争を調停するような温和な親睦組織として出発していました。大逆事件(注3)(一九一〇年)のあと、社会運動の「冬の時代」とも言われた時だけに、この友愛会の活動も順調な展開をみせたわけではありません。
しかしそれでも、賀川が帰国した頃には、神戸でも川崎造船所、三菱造船所、神戸製鋼所などの労働者によって、数ヶ所に組合支部ができ、友愛会神戸連合会も結成されていました。そして、一九一七(大正六)年一〇月には賀川は神戸連合会の評議員に推され、翌年早々にはその「新年茶話会」で、「英国に於ける戦時労働組織に就で」講演するなどして、友愛会との関係を深めていきます。
こうして賀川は、同年八月に創刊された友愛会の機関誌『新神戸』(のちに『労働者新聞』に改題)の編集顧問を担当します。彼はその「創刊号」に「無産者階級の出現」と題して、つぎのような主張を発表しています。
「私達は労働者として、世界を支配する力は兵力でもなく、金力でもなく、ただ智力ばかりでなく、誠にそれは労働と愛であることを宣伝する責任を思ふ。この意味に於て、無産階級の出現は、愛と光明の世界の創造を意味し、略奪と征服者の野心の追放を意味する。」
こうした論調で彼はほとんど毎号、その健筆をふるいます。米騒動なども起こり、労働運動も活発化して、一九一九(大正八)年四月には、鈴木文治、久留弘三(注4)らと友愛会関西労働同盟会をつくり、賀川はその理事長に選任されます。その時の「創立宣言」は賀川の起草にもなるもので、次のように記しています。
「我等は生産者である。創造者である。労作者である。我等は鋳物師である。我等は世界を鋳直すのだ。又我等は鉄槌を持っている。我等は内住する聖き理想と、正義と、愛と、信仰の祝福に添はざるものあれば、我等はその地金がさめざる中に、その槌を打ちおろすのだ。……騒ぐな人々よ。……生産者の道は建設と創造にあるのだ。……
時代は変るであろう。流行を追うことの好きな日本人は、昨日は帝国主義を送り、今日はデモクラシーを迎え、明日はまた人種的偏見に煩はされて、我等労働者の自覚に一顧だに与へないであろう。しかし、我等はすでに一歩を踏み出した。この道は決して変るものではない。」
※賀川の労働運動に対する当時の見方は、発行後すぐ発売禁止になった『労働者崇拝論』(一九一九年)や『労働者新聞』に収めた論説で成る『自由組合論』(一九二一年)などに詳しく展開されています。
(注1) 友愛会
一九一二年、鈴木文治によって一五人の会員で創立、はじめ「自覚と修養」で労働者の地位の向上をめざした。四年後には会員が一万八千人に増大し急速な発展をとげた。
(注2) 鈴木文治(一八八五〜一九四六)
宮城県金成町生まれ。一九〇九年東京帝国大学卒業後、一九一〇年東京朝日新聞社に入社。翌年浮浪人研究会を組織するなど貧民問題に没頭し退社。一九一二年友愛会を結成し会長となる。
(注3) 大逆事件
明治末の厳しい弾圧下に、少数の社会主義青年が企てた明治天皇暗殺計画と、それを利用した当局の社会主義者弾圧事件。事件に全く無関係なものも含め二六人を起訴し、幸徳ら二一人は判決から一週間後(一九一一年一月)処刑された。
(注4) 久留弘三(一八九二〜一九四六)
鹿児島県生まれ。一九一六年早稲田大学卒業後、友愛会本都副主事となり、一一年後神戸地方の友愛会活動に尽力。川崎・三菱大争議では参謀として争議団を指導。一九二六年日本労農党結成に加わり兵庫県連合会委員長となる。
2 普選要求の歌
一九一九(大正人)年一二月には、大阪中央公会堂で普選要求労働者演説会を開催して、そこでも賀川が次のような「言言」を起草しています。
「金銭によらず、因襲によらず、自主と自由に醒めたる労働者は選挙権を要求す。われらは人格者である。人格者たるわれらが選挙権を要求するのは当然である。」
明治三〇年代から続けられてきたこの普選獲得運動は、大正デモクラシーの高揚するこの時期には最高潮に達しました。年が開けると、尾崎行雄(注1)や今井嘉幸(注2)らと共に大阪・神戸を中心に活発な運動をおしすすめ、自ら“普通選挙の歌”をつくり盛り上げていきます。関西のこうした動きに呼応して、関東の友愛会も数万人の大示威運動を組織し、国会に向けて大きな世論を形成するのです。
しかしこの時、国会は解散され、選挙後の議会でも普選の案は上程されたものの無残なかたちで否決され、議会制度に対する幻滅が人々を支配しはじめるのでした。そのため、関東ではとくに無政府主義的な流れの影響を受けた直接行動主義が主流となり、賀川らの議会主義に立つ流れと厳しい対立を生んできました。
こうして普選運動は全体的に下火になり、賀川の力点は、非暴力的組合主義に立つ労働者の学習運動にかけられていきます。そして自ら講師をつとめて、神戸や大阪で「労働講座」を開講するのです。
(注1)尾崎行雄(一八五九〜一九五四)
神奈川県生まれ。慶応義塾などに学び、一八七九年『新潟新聞』を皮切りに論陣をはる一方、政治活動に加わり、一八九〇年の第一回総選挙で衆議院議員に当選。一八九八年大隈・板垣内閣の文相。一九〇三〜一二年東京市長。
(注2)今井嘉幸(一八七八〜一九五一)
愛媛県小松市生まれ。一九〇四年東京帝国大学卒業後、東京地裁判事。一九一七年衆議院議員当選。翌年に友愛会顧問。一九二二年、西日本普選大連合を組織して、普選運動を指導した。
(次回に続く)