「賀川豊彦と現代」(第12回)(絶版テキスト化)




 賀川豊彦と現代(第12回


 絶版・テキスト化


          Ⅳ 胎動期の開拓的試み(1)


           3 「自治工場」の試み


 さて、もうひとつの取り組みとして「自治工場」の試みがあげられます。これにはふたつの目的がありました。ひとつは、仕事を自分たちでつくり共同の自治的な労働の場を確保すること、他のひとつは、先の「救済所」を充実させて病院を建てる資金を得ることでした。


 そこでまず、彼らは小さな歯ブラシエ場を始めます。しかし、この夢は、資金難や技術不足で、一丸一七(大正六)年一一月に始めて一年ほどで終わりを告げてしまいます。これには十分な見習期間もおき、資金も多くつぎこんだのですが、結局工場をほかに譲り渡す結果になりました。


 けれどもこの活動は、自主的な就労活動の開拓的な試みのひとつとして、後々まで人々に記憶されることでしょう。


           4 兵庫県救済協会


 ところで、一九一七(大正六)年三月には、兵庫県でも清野長太郎知事(注1)を筆頭にした「兵庫県救済協会」の設立がすすみ、賀川は同年五月に帰国するとすぐ、この救済協会関係者らによる「神戸慈善団協議会」に招かれ、「米国救済事業視察談」を求められています。


 そしてこの年の夏は大変な水不足に襲われ、なかでも新川地域では困窮を極めたため、賀川は知事を訪問して応急策を求めます。これはすぐに「救済協会」の活動として実行され、地域内数ケ所に洗い場を設置したりして、急場をしのぐことができました。


 この「兵庫県救済協会」は、「兵庫県下に於ける感化救済事業を統一し之が改善発達を計り事業の真相を社会に紹介し旦之に関する行政を翼賛するを以て目的とす」とあり、正式な創立総会は同年一一月に開かれました。この組織は、「中央慈善協会」(注2)の下部組織で、神戸市内の部落の地元改善団体への働きかけが少し加味されている程度のものでしたが、賀川はこれの嘱託にも就いていました。


 翌年、同協会は、神戸市内の失業者救済の目的で、県下ではじめて「職業紹介所」を設置することにし、清野知事はこのことを賀川に相談します。そして、賀川はその適任者として東京で活躍していた遊佐敏彦(注3)を招きよせることになるのです。こうして、六月には「生田川口入所」として開所され、後の神戸における職業紹介所事業のロ火を切ることになります。そして賀川や武内勝らのイエス団関係者が、この方面の事業の発展のために大きく貢献していくのです。





(注1)清野長太郎
 兵庫県第一四代知事(一九一六年〜一九一九年)。「社会事業官僚」として知られる。
(注2)中央慈善協会
 一九〇八年に渋沢栄一らによって設立。一九二一年「中央社会事業協会」と改称し、同協会内に地方改善部が設けられ、全国各地の融和団体の連絡・指導にあたった。
(注3)遊佐敏彦(一八八八〜一九七三)
 明治学院に学び、賀川の三年後輩になる。アッシジの聖フランシスに傾倒し、神戸では一九一八年から一九二一年まで働き、上京して協調会嘱託、中央職業紹介所事務局主事となる。


             5 神戸の米騒動


 周知のとおり、一九一八(大正七)年八月には「米騒動」が起こります。これは、米価の急騰により、その廉売を求めて始まった全国的な騒動でした。阿部真琴(注1)『兵庫米騒動記』(一九六九年)などで詳しく述べられているように、とくに阪神地方は参加者が多く、神戸は最も激しい地域のひとつでした。多数の群衆は、鈴木商店などに放火し、米屋を襲撃しました。そしてこれには、新川や番町などの労働者も多数加わり、警官や軍隊による激しい弾圧を受けることになります。


 賀川も、実際にこの騒動を直接経験して、問題解決にむけた新しい活動の必要性を痛感していくのです。


(注1)阿部真琴(一九〇八〜一九八八)
 神戸大学名誉教授。兵庫県歴史教育者協議会会長。



   (次回に続く)