「賀川豊彦と現代」(第11回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第11回


  絶版・テキスト化



         Ⅳ 胎動期の開拓的試み(1)


          一 医療・就労活動


           I イエス団友愛救済所 


 賀川は、一九一四(大正三)年八月から一九一七(大正六)年四月まで三年近くをアメリカで過します。その間、プリンストン大学及びプリンストン神学校で実験心理学や神学を学び、さらにニューヨークのスラムを視察したり、各地で活発に展開されていた労働運動の実際を目のあたりにして、帰国後の彼の活動の在り方に大きな示唆を受けることになります。


 横浜の共立女子神学校で学んでいたハル夫人も卒業して神戸に帰り、住いも二階建の広い借家に移って、再び活気にあふれた活動が始まるのです。その頃、天然痘の流行が少し下火になってはいたものの、相変らず荷上げ仕事などでけがをする人々も多く、トラホームによる眼病も放置状態のままでした。


 帰国後すぐに手がけたことは、まず小さな夜学校でした。クラスを二つに分け、中学校の古い教科書を用いて教えたと言います。そして特に力を注いだのは、無料の診療活動です。なかでもハル夫人の献身的な活動ぶりはめざましく、毎日小さなバケツに点眼薬を入れて露地をまわり、点眼活動を続けました。ところが数ヶ月後、ハル子夫人は悪性のトラホームにかかり、大阪医大病院に入院して手術をしましたが、ついにその時右眼を失明してしまいました。


 こうした活動を基礎に診療所の設立準備がすすみ、一九一八(大正七)年七月には「イエス団友愛救済所」が発足いたします。正式認可は翌年八月で、賀川を主事に、医師一人、看護婦三人が当りました。


 これの資金づくりのために、「貧民救済慈善音楽会」を神戸基督教青年会館で催すなどしていますが、主には古田栄蔵、大迫武吉、山本顧弥太、福井捨一らが財政的援助をつづけました。そして最初の頃は、西宮市の姫野正義医師が午後のみ診療に当り、その後、専任の医師として馬島福(ゆたか)(注1)か着任して、少しずつ組織的形態を整えていきます。





(注1)馬島福(一八九三〜一九六九)
 名古屋市生まれ。賀川と同じ徳島中学を出て、一九一八年愛知県立医学専門学校を卒業。一九二一年賀川の援助でシカゴ大学ベルリン大学に留学。帰国後、産児調節の啓蒙や麻薬中毒者の救援などに力をつくす。


            2 医師・馬島澗


 馬島福の名は産児制限などでも有名ですが、彼は一九一九(大正八)年七月から診療に加わり、意欲的な活動をすすめました。「彼は線の太い、豪放瓦落なそれでゐてデリカシーを解する文化人であった。その上、貧しい人々に奉仕しようといふ積極的な熱意があるものだから、貧民窟の人々は、信頼と愛着をよせて、診療所は、いつも混雑した」(横山春一)と言われます。


 そして「施薬所」も増設して、「葺合新川」に加えて、同市内の番町地域へも「イエス団友愛救済所出張所」が設けられていきます。そして、それまで私宅を別の所に置いていた馬島医師は、家族五人と共に、一九二〇(大正九)年二月からその「出張所」へ移り住みます。午前は番町で、午後は新川で毎日数十名の診療を行ないました。


 当時の『神戸新聞』(大正九年三月七日)は、「虐げられた人々の為に身を委す若き医師」の見出しで、次のような馬島の談話を紹介しています。


 「……人間として一切平等であるべき筈の人が、習慣の為に社会の繋縛から脱し得ずに苦しんでいる……先づ私は、其の友人として生きねばなりませぬ。」


 馬島はしかし、翌年七月、医学の研究のためアメリカに旅立ってしまいます。この時の様子も『毎日新聞』(大正一〇年七月一〇日)が写真入りで詳しく報道し、「新川及び番町部落の有志達は、馬島氏の過去の苦労に感謝し、合せて其行を旺にする目的で、大挙して同氏の乗船を見送った」と記しています。


 馬島医師のあとは、於保泰造医師が引受け、さらにハル夫人の妹・芝八重医師(注1)が一九二五(大正一四)年から一九四五(昭和二〇)まで、その献身的な活動を長期にわたって継続することになるのです。


 (注1)芝 八重(一八九八〜一九七五)
 一九二四年東京女子医学専門学校卒。一九四五年一一月より平和建設団の東京三軒長屋診療所医師。一九五六年より国立癩療養所邑久光明園医官


   (次回に続く)