「賀川豊彦と現代」(第10回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第10回


  絶版・テキスト化


          Ⅲ 新しい生活の中から(2)


          二  賀川の部落問題認識


            1 人種起源説


 ところで、賀川は『貧民心理之研究』の第一編第七章「日本に於ける貧民及貧民窟」の部分で「特種部落」に言及しています。その第一節には次のように記されています。

 ※「特殊部落」「特種部落」「徽多」といった用語については、兵庫部落問題研究所刊(市民学習シリーズ9)『部落問題用語解説(新版)』を参考にして下さい。


 「日本全体の貧民窟から云へることは、もし都会に貧民窟と云ふ可きものがあるならば、それは特種部落より発達して居ると云ふことである。実際之は驚く可き事実で、日本に於て実際、純平民の貧民窟は無いと云って然る可きである。……それで、都会の貧民窟と云っても、実は穢多的結合をして居るものが多いので、殆ど人種的と云ってよかろうと思ふのである。……東京の今日の貧民が然しどれだけ穢多から成立って居るかと云ふことはわからぬが、よく調べたら貧民の三分の二以上が穢多であるかも知れないと私は思って居  るのである。之はだから日本の貧民窟研究に志すものが決して忘れてはならない、人種的分解法である。」


 そして、第二節「東京の貧民」、第三節「大阪の貧民」、第四節「神戸の貧民窟」と続き、第五節において「穢多村の研究」がおかれています。そこで彼は、次のように書きすすめるのです。


 「日本に於ける貧民を研究する者には穢多の研究は実に重要なものであることは既に説いた。然し日本人が穢多に就て研究して居る処は実に僅である。起原に就ては『穢多の研究』と云ふ書がある。歴史的に研究せられたものには遠藤博士の『日本我』がある。社会的に研究せられたものには留岡氏の『社会と人道』などかある。然し未だ未だ穢多の研究は之れで尽きては居らない。言語学的研究もまだ出来ては居ない。人類学的研究もまだ出来て居ない。遺伝学も彼等の中に多くの何者かを発見するであろう。然し私も彼等に関して知る処は全く皆無である。……彼等の起原に関しては、職業によれる起原説(遠藤氏)、人種による起原説、奴婢奴隷捕虜よりなれりとする起原説、罪人穢多編入説等がある。然し私は凡てが少しづつ真理であらうと思ふ。けれども私は主として、人種説を取る。」


             2 独断と偏見


 このような見地に立って、賀川は、自らの主張に見合う諸経験をおりまぜて、部落を「カウカサス種の子孫」であるとか、「犯罪人種」であるとか、「時代に遅れた太古民」「売春種族」などと断じてはばからないのです。そしてまた、この時の賀川の考えでは、「私は決して特種民の改善に悲観するものでは無い」として、次のようにも記しています。


 「実際彼等の多くは今日既に改善せられて居り、また彼等自身も都会に流入して自己淘汰を行ひつつあるのである。……よき淘汰法と教育によっては、普通の日本人よりは善良優等なるものを創造し得るは私の信じて疑わぬ所である。私も多くの得たと同じ床に寝、同じ食を取って之を信じて疑わないのである。」


 こうした賀川の部落問題に関する見方について、前節末で紹介した米田の批判は向けられていたはずです。


 ではなぜ賀川は、このような「人種起源説」にみられるような独断と差別的偏見に落ち込んだのでしょうか。それには、いくつかの理由をあげることができるとおもいます。


 たとえば、Iでもふれたような、彼自身の成育過程の中で、当時ではいわば常識的一般的な差別的偏見がそのまま残され、その「常識」が新しい生活体験をとおして一層増幅され、さらにそれが彼の研究上の視点の上でも固定化され、その見方からすべてを強引に割切ってしまう独断を犯してしまったのではないか、というようなことは考えられます。しかしもちろん、そうした一定の社会的・歴史的、その他諸要因が考えられるにしましても、賀川のこうした考え方は、端的に差別的偏見と独断にすぎないことは、あらためて言うまでもありません。


            3 認識の変化


 しかし、賀川はこうした独断と偏見をその後も変らず持ち続けたのでしょうか。『貧民心理之研究』を刊行して四年後(米田の「注意」を受けて二年後)、一九一九(大正八)年六月に、同じ警醒社書店から『精神運動と社会運動』という七一九頁にもなる大著を世に問うています。


 この書物の中の後編「社会運動編」の四に「兵車県内特殊部落の起原に就て」と題する一節が収められています。そこで検討の材料に用いているのは、引用文などを見るかぎり、大正二・三年刊とされる『兵庫県部落沿革調』(兵庫県内務部議事課)であることがわかります。


 この『沿革調』は、一九一二(明治四五)年に内務省が各府県知事に命じて、各部落の起源・沿革・人口等を調査したものをふまえたものですが、これ自体当時の限界とはいえ、差別的な内容のものであることは言うまでもありません。


 それでも賀川の『精神運動と社会運動』における見方は、前著『貧民心理之研究』のような記述の仕方から一定の変化が見られます。賀川はこの書物の別の個所でも、「内務省報告」の大正六年のものや八年のものをも参照しながら、次のような記述を残しています。


 「部落の問題――この最暗黒の感情の中で、所謂特殊部落なるものに向って、普通の部落が現す所のもの程暗黒なものはない。日本には今日八十三万八千六百六十六人の部落民かおることになって居る。その多くは農村に住んで居る(大正八年一月内務省報告)。然し彼等が今日農村で受けて居る忍従は、とても想像以上である。然し之は全く、今日の日本の農民が米をつくるを知って人間をつくるを知らざる故である。私はこの階級的思想が一日も早く去られんことを望む。島崎藤村の小説破戒はこの辺の消息を洩したものであるが、  私は部落民のことを思ふと涙が出る。彼等を開放せよ。彼等を開放した日に、日本の社会は完成に近いのだ。」


 賀川は、さらにその後も関連する資料を求めており、おそらく大正一〇年前後のものとおもわれる『部落伝説史料』を収集しています。これは、全国の「細民部落分布」と兵庫県下の「部落調査」で構成され、二百字詰の「賀川原稿用紙」で二四四枚に及ぶ自筆史料です。もちろんこの「史料」そのものが当時の限界をもつものですが、それぞれの部落の「起源と沿革」を集めながら、「落武者」「浪士」「美濃の武士」「移住」「個人的」「僧」「朝鮮帰化」などと書きこみ、部分的に「研究ノ要アリ」と記すなどして、『部落伝説史料』に検討を加えています。


 これを見るかぎり、賀川なりの、この分野の研究的関心の持続のあったことがわかります。しかしその後いつ頃まで、この問題の研究的関心を持ち続けたのか、そして賀川の中にどのような認識上の変化があったのか、今のところ正確な資料をとおしてそれを明らかにすることはできません。


 しかし、Ⅳ以下で詳しく見るように、賀川は、部落問題だけでなく労働運動その他、広範な活動に打ち込むなかで、また実際に水平社運動の創立者たちとの親密な交流をとおして、旧来の考え方は徐々に改められていったことは、誰も否定することはできないでしょう。


   (次回に続く)