「賀川豊彦と現代」(第9回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第9回


 絶版・テキスト化


        Ⅲ 新しい生活の中から(2)


         一 『貧民心理之研究』


          1 米田(注1)の「序文」


 『貧民心理之研究』は一九一五(大正四)年一一月、賀川の渡未中に、菊版六五四頁にのぼる大著として、警醒社書店から刊行されました。


 すでに当時彼は、「宇宙悪論」(これは最晩年に『宇宙の目的』と題して仕上げられた)や「基督伝論争史」といった研究に打込んでいましたが、この『貧民心理之研究』への没入も特別のものがあったと言われます。これの完成のために、貧困研究の古典とされるC・ブース『ロンドン市の生活と労働』、ローントリー『貧困――都市生活の研究』をはじめ、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、横山源之助『日本之下層社会』、大我居士『貧天地饑寒窟探検記』、社会政策学会『生計費問題』等々を広く読破し、自らの新しい経験をふまえて研究をすすめました。


 賀川は、この著作を同年三月には脱稿し、当時注目を集めていた京都帝国大学社会学研究室の米田庄太郎を訪ね、本書の「序文」を請うています。米田の「序文」は、無名の賀川にとってよほど嬉しいことであったに違いありません。


 ところで、この「序文」は七頁に及ぶ、じつに懇切丁寧なもので、その書き出しは次のようになっています。


 「数年前の或日、本書著者賀川氏、余を来訪せられ、氏が多年間献身的に従事されつつありし貧民救済事業に就で、余に語られたが、其際余の殊に興味を感じるのは、我国の貧民の心理状態に関する氏の研究であった。されば余は氏が斯方面の殊に力を尽くされんことを切に希望して置いたが、昨年氏が海外遊学の為に将に母国を去らんとせらるるに当て、再び余を来訪せられ、本書の原稿を余に示さるると同時に、余の序文を求められた。余は本書の如き、著者の多年間の真面目な研究より成れる有益なる著作に序文を書くこと  は、実に光栄とする處である……。」


 そして米田は、「貧民の科学的研究」の現状にふれて、欧米諸国の研究においていくつか有益でみるべきものがあるにせよ「尚ほ甚だ幼稚な状態にある」ことを述べ、「賀川氏の本著作に於て見る如く、貧民心理其物を対象として、之を組織的に研究せんと試みたる著作は、まだ欧米諸国の何れに於いても、出版されて居らないと思ふ」と、その独自な価値を指摘しています。米田は、さらに続けて次のように述べるのです。


 「されば余は今日本書の如き著作が、我邦の学者の手によりて、公にされたことは、我邦の学界の誇りとす可きことであろうと信ずる。」


 この著作は大部なものであったこともあり、すぐには出版されませんでした。印刷にまわされるまでに、彼の原稿はいろいろな人の目に止められたようで、賀川と同時代に生きた河上丈太郎は、当時まだ東京帝国大学の学生であったはずですが、後に彼は『神はわが牧者』(田中芳三編著、一九六〇年)の中で次のように述懐しています。


 「私が賀川先生の名を知ったのは、大正の初め頃であった。当時私の知己であった日本における有数のキリスト教出版社である警醒社から、『こんな本を出したいのだが』と原稿を見せて貰ったのが、賀川先生の『貧民心理の研究』であった。私はそれまで賀川先生のお名前を知らなかったが、その内容の科学的なことと、貧しい人々への伝道の情熱に強く打たれ、深い感銘を受けた。それ以来、賀川先生の名は私から離れないものになった。」






(注1)米田庄太郎(一八七三〜一九四四)
 奈良県辰市町生まれ。一八九五年から欧米に留学し社会学を学び、一九〇一年帰国後同志社大学で、一九〇七年から京都帝国大学で、それぞれ教壇に立つ。
(注2)C・ブース(一八四〇〜一九一六)
 英国の船主。社会問題研究家でもあり、「老齢貧窮者」に関する調査を行ない「養老年金法」の成立(一九〇八年)にも貢献した。
(注3)河上丈太郎(一八八九〜一九六五)
 東京都生まれ。一九一五年東京帝国大学卒業後、立教大学および明治学院大学講師。一九一八年関西学院大学教授となり神戸に移る。



           2 賀川の「自序」


 本書はしかし、賀川にとって決して満足のいく研究書ではありませんでした。
米田の「序文」に続いて彼の「自序」が収められています。これは一九一五(大正四)年一月六日付で、プリンストンで記されており、その書き出しは次のようになっています。


 「私は此書を一生懸命になって書きました。然し此書は私に取っては一論文の一小部分にしかなって居りませぬ。『宇宙悪』の問題は永らく私の頭を悩まして、私は数年来唯そのことばかり考えて居ります。そのうちにも貧苦と精神の衝突は殊に私の注意を惹いたものですから、私はその材料を集めることになりました。即ちそれが此書であります。で、私から見れば此書は『宇宙悪』論の数頁−社会苦の方向が少しわかった位ゐにしか成って居らないのであります。だから、私は此書の中に何者をも解決して居りませぬ。
 また自白しますが、私は立派な心理学者でもなく又経済学者でもないので、善い材料も充分集め得なかったのであります。専門的に見れば恥しい様な處が沢山あると思ひます。然し唯私の許して居りますのは、此方面の研究は社会心理学の新方面であるのと、私か四年八ヶ月の貧民生活は、私で無ければ得られないと思って居る材料が得られたかと思ふことであります。――それも間違って居るかも知れぬが。」


 さらに賀川は、これの本文のはじめには、次のように記しています。


 「私は朝から晩まで貧民窟に住んで居るので、貧乏のいかに辛いものであるかと云ふことをつくづくと思ふのである。が、そのまた貧乏といふのが、精神生活に及ぼす影響の如何を考へまた目撃すると、実にロにも筆にも及ばぬ惨憺たるもので、折々窮りない厭世観に魔はれることがある。
 唯物的歴史観が、萬象の精神生活を凡てパンの問題で解決が出来ると思ったのは二、三十年前からの事であるが、私は、貧民窟の哀史を一日一日繙くと共に何だかランブレヒトや、マルクスの所説が『ほんとぢゃないのか知ら』と釣込まれ相なこともある。
 然しまた、人間の精神生活は実に高貴なもので、………如何な貧民と云へども、根底に於てパンと寒気に圧迫されて居ても、また精神生活の一種の表面張力によって、水が軍艦を浮ばす様な、不可思議な現象を演じて居るのである。
 ……『パンがどれだけ精神を圧迫するか?』……『精神生活はどれだけまでパン生活を超越して存在し得るか?』」


 このようにして彼は、本書を三編構成にして、第一編「物質の欠乏したる人間の研究」、第二編「物質の欠乏の精神におよぼす影響の研究」、そして第三編「物質の欠乏したる人間の精神の研究」へと書きすすんでいます。


           3 米田の「注意」


 本書の内容と一般的価値に関しては、これ以上言及いたしませんが、この著作は今日でも「日本の貧困研究史上不朽のもの」(隅谷三喜男)とも言われ、明治末から大正初期にかけての都市下層社会の実状を知る上で、貴重な文献のひとつとして欠かすことはできません。


 しかしながら、本書については、先の米田の「序文」の終わりの部分で、すでに次のような批判が加えられていました。


 「余は本書の研究法や材料に就ては、不完全なる点の少なくないことを認めて居る。又著者の見解や、結論に就ては、余の賛成し難い点は多い。而して其等の点に就ては、他日本書を公に論評して、又は著者の帰朝の上、個人的に注意して、著者の反省を促したいと思ふで居る。」


 米田のこの指摘は、賀川の本書における部落問題に関する認識上の誤りもしくは限界にのみ関わるものではないでしょうが、「著者の反省を促したい」点のひとつは、おそらくその点であることは確かなことでしょう。米田はその後、この著作について「公に論評」したあとは認められませんけれども、賀川は一九一七(大正六)年五月に帰朝して早々、米田を訪問しており、さらに以後両者は、後にみる友愛会の運動や協同組合運動などをとおして、その関わりを深めることになるのです。


    (次回に続く)