「賀川豊彦と現代」(第8回)(絶版テキスト化)




 川豊彦と現代(第8回


  版・テキスト化


        Ⅱ 新しい生活の中から(1)


          二 救霊団の諸活動


          3 武内勝との出会い


 賀川の生活のまわりには、次々と新しいドラマが始まります。当初は、路傍説教や日常の生活をとおしてなじみになった婦人や老人たちが「救霊団」の中心でしたが、だんだんと青年たちも加わり、活動も活気を帯びていきます。その頃の生活ぶりについて彼は「新川の日課」と題して、次のように記しています。


 「……朝五時から青年を教え、七時から病人たちを一通り見てまわり、それから著述に従事した。午後になると貧民窟をみてまわって、病気で寝ている薬ものんでいない病人を病院に送ったり、葬式をしたり、戸籍届の代書をしたり、子供と遊んだり、六時から夜学校をはじめ、八時に辻説法、九時半頃にかえり、一〇時頃寝るのが普通だった。」


 右に「朝五時から青年を教え」と記されてる「青年」は、賀川とその生涯を共にした武内勝のことです。「六時からの夜学校」というのも生徒は武内らであり、賀川が結婚したあとはハル子夫人も加わって、文字どおりの「賀川塾」が続けられます。


 武内は、一八九二 (明治二五)年に岡山県御津郡吉宗に生まれ、賀川との出会いのあと一九六六(昭和四一)年七四歳で没するまで、賀川と共にその志しを最も忠実に貫いた人のひとりでした。


 前にもあげた彼の口述記録『賀川豊彦とそのボランティア』には、「救霊団」設立の初期からの貴重な証言が収められていますが、賀川が留学のため渡米中も、また後に賀川が家族と共に神戸を離れてからも、神戸における諸活動を地道に継続させていった中心的人物は、この武内です。


 賀川の新しい生活には、たとえ一人でも心が通じ会い互いに信頼し会える友が必要でした。武内にとって四歳年上の賀川はむしろ「先生」でしたが、賀川にとって武内は、すべてを託するにたる最良の友であり、助け手でありました。


 賀川らの生活ぶりは、どこか禁欲的で、極めて質素なものでした。横山春一の『賀川豊彦伝』(一九五一年)によれば、賀川は「貧しい人々がすくわれるまでは、二枚以上の衣服は着ない、肉も魚も決して食わぬと神に誓った」とも言われ、そうしたユーモラスなエピソードが数多く残されています。次の作品は有名なものですが、彼の暮らしぶりがよく出ています。


   一枚の着物に汚れがつきにけり
                洗ってゐる間は 裸体美を説く
   一枚の最後に残ったこの着物
                神の為めには猶ぬがんとぞ思ふ
                        (『涙の二等分』)








           4 芝ハル子との出会い


 不思議なことに、こうした生活を続けるうちに少しずつ健康も回復し、一九一三(大正二)年五月には、生涯の伴侶・芝ハル子(豊彦と同じ入八八年生まれ)との結婚生活も始まります。


 彼女は近くの福音舎という印刷所で働く女工でしたが、すでに結婚の前年(明治四五年)には、熱心なボランティアのひとりとして、賀川らの活動に参加していました。その献身的な姿は、賀川にも劣らぬものがありました。


 二人の結婚式は、お茶一ぱいもお菓子一つも出ない簡素なものでしたが、数日後に夫妻は、近所の特に貧しい人たちを「救霊団」に招待して、三宮の一流の料亭から寿しの折詰をとって、豪勢に結婚披露をいたしました。そして賀川は、その席で次のように述べたのでした。


 「……私はあなたがたの女中さんをお嫁にもらいました。あなた方の家にお産や病気で手が足らなくて困った時にはいつでも頼みに来て下さい。いつでも喜んで参ります。」


 こうして賀川らは、子どもらと海水浴に出かけるなどしてよく遊び、青年だちとは山登りをしたり、一膳飯屋「天国屋」を店開きしたり、型にはまらない「奉仕・救済活動」に取り組んだのです。


 賀川らの活動が社会的に注目を集めはじめるのはその後のことですが、やはり何といってもこの初期の頃の小さな歩みこそ、賀川らにとって生涯忘れることのできない、最も大きな豊かな経験を重ねたときであったと言ってよいでしょう。








             5 アメリカ留学


 武内やハル子夫人らの協力が加わり、新しい生活が根づき始めた頃から、次に検討する彼の力作『貧民心理之研究』などの執筆に打込むことになります。そして、自らやりはじめた活動の新しい展開を求めて、ひとつは勉学のため、いまひとつは支援者協力依頼のため、アメリカ留学をおもいたつのでした。


 この願いは、結婚一年余で実現し、一丸一四(大正三)年八月にプリンストン大学にむけて単身旅立ちます。留守中の活動は、すべて武内ら青年たちが受けもち、青年らはそれぞれ仕事につき、そこで得た給料は全部持ち寄って“共産生活”を試みたりしています。


 青年たちは、一円ずつ小遣いを受けとるだけで、他はことごとく救済活動のためにあてるという、独立と自治を基本としたしつに愉快な生活を実験したのです。


 また、ハル子の方は、賀川の留学中を生かして、横浜の共立女子神学校に入学し、彼女にとっても貴重な三年間の学生生活を送ることになります。


   (次回に続く)