『賀川豊彦と現代』紹介批評テキスト化分(16)赤旗日曜版文化欄


賀川豊彦と現代』紹介批評(16)


 「赤旗」(日曜版)「文化欄」


   テキスト化分


            「宗教者は語る」





       鳥飼慶陽さん(日本基督教団「番町出合いの家」牧師)
  ききて手 日隈威徳さん(日本共産党中央委宗教委員会責任者)


      部落問題は歴史的、科学的にみることが・・・・


 鳥飼慶陽さんの著書『賀川豊彦と現代』が各方面で反響をよんでいます。鳥飼さんは日本基督教団「番町出合いの家」牧師で、兵庫部落間題研究所の事務局長でもあります。神戸市内の同事務所でお会いしました。


 日隈 ことしは賀川豊彦の生誕百年で、国内でも国際的にも多くの記念行事か計画され、映画「死線を越えて」〔現代ぶろだくしょん製作〕もつくられましたが、いまの若い世代は賀川の名前を知らない人も多いのではないでしょうか。


          賀川の青年時代に共感して


 鳥飼 私たちの世代でも賀川の著作を実際に読んでいる人は少ないと思います。超ベストセラーになった『死線を越えて』の刊行は一九二〇年ですから、あの作品に衝撃を受けたり、賀川の生き方に心をうたれた人たちは私たちよりもかなり前の世代になりますね。

   
 日隈 ところで、鳥飼さんはどんなきっかけで?


 鳥飼 私は高校のころ、教会で賀川を知るのですか、本格的には、賀川のホームグラウンドであった神戸の「葺合新川」の神戸イエス団教会に招かれて以後ですね。


 賀川は、青年時代に、あそこでのセツルメント活動、伝道と救済のための「救霊団」という小さな「家の教会」をはじめました。私も私なりの歩みをしたいと思い、正式に牧師になった一九六八年に、「番町出合いの家」を開設して新しい歩みをはじめたのです。


 キリスト教の牧師はふつう教会の信徒を相手に活動をしますが、そうした既成の教会ではなく、自分の生きている場所すべてか教会、出合いの場であるという考えですね。私のところは妻も牧師で、当時、二歳と三歳の二人の娘と四人が住んでいた六畳一間の家を 「出合いの家」と称したのです。あれからもう満二十年になります。


 労働牧師と勝手にいっていますか、はじめの五年ばかりゴムエ場の工員として働き、職場の人たちとも裸の出会いを経験することかできました。私が牧師だということはみんな知らなかったと思いますよ。


         「差別者」だとタブー視も


 日隈 賀川豊彦キリスト教社会運動家、文筆家として早くから国際的に知られていましたし、スラム街での伝道、救済活動はもちろんのこと、労働、農民運動、部落解放運動だけでなく消費者運動、つまり今日の生協運動の生みの親でもあり、実に幅広い活動をした人ですね。


 鳥飼 あのように、スケールの大きい社会活動に没頭できた、その精神の出どころには、賀川のユニークな神学思想、信仰理解があったと思います。つまり、イエスが十字架刑になるまでに抵抗して生きた生き方、なぜイエスはあのように自由に生き得たのかという隠された秘密に、賀川ははじめから注目しています。賀川のあの冒険的な歩みの出発点には、福音理解のうえでのそうした発見があったと思います。


 もうひとつの賀川の魅力は、病気とか、人生のさまさまの逆境を逆転させて、まさに「死線を越えて」献身的に生きた、その生き方です。あの生き方は、かつても多くの人びとの胸を打つたし、“豊か”になった今日も人びとを引きっける普遍性をもっているのではないでしょうか。


 ところが、私の所属している日本基督教団では、「差別者・賀川」と、逆にタブー視されているんですね。


  〈“部落差別”をめぐって理不尽、暴力的な「確認・糾弾」をしてきた[解同](部落解放同盟)に同調して、日本基督教団のなかにも「部落解放センター」かつくられ、賀川 の初期の著作にある考え方をとらえて賀川を差別者ときめつける潮流が生まれた。それは、『賀川豊彦全集』(キリスト新聞社刊)をめぐる問題、教団内部での「賀川問題」としていまもつづき、賀川の正しい理解をさまたげている〉


          ゆがめられている部落問題


 日隈 『賀川豊彦と現代』の「はしがき」でのべられていますが、教団内の「賀川問題」がこの本をまとめられる動機でもあったわけですね。


 鳥飼 この十数年間、キリスト教界、宗教界では、部落問題が非常にゆがめられてあつかわれ、タブー化されてきました。それに輪をかけたかたちで「賀川問題」かあった、と思います。


 部落問題がどうなっているのか、歴史的、科学的な認識がないままに、間違った「運動」をそのまま受けいれる傾向がつづいてきました。


 しかし、一般の信徒や市民の方がたは、賀川をもっと公平にみていたと思うのです。


 私のこの本を読んで、はじめて「賀川問題」がよくわかったという反響がありました。このような反論をひそかに待っていた人がたくさんいたということです。


 賀川の考え、運動には当初から多くの分野で批判があり、評価も分かれていました。個性あふれる独創的な人ですから、むしろ当然です。しかし、最近の「差別者・賀川」ときめつける乱暴な批判は、これはまた新しい問題なのです。


             木村京太郎氏の貴重な証言


 日隈 賀川の著作には当然、時代の制約があります。「人種起源説」(部落民は異民族だとする説)はけしがらんといいますが、部落について科学的な研究がほとんどなかったあの時代に、そうした制約をまぬがれた見解や著作が、はたしてあったかどうか………むしろ私は、日本での初期社会主義としてのキリスト教社会主義を知るうえで、賀川の全体像をもっと正確に知りたいですね。


 鳥飼 いまの『全集』(24巻)は、賀川の著作を網らしてはいません。賀川の著作をきちんと整理して、新しい全集を出すべきだと私は提案しているんですよ。


 それから、私のこの本にかんしては、京都の木村京太郎さんがこれを読んで、ぜひ会いたいという手紙をくださって、お会いしたんですよ。


 日隈 ほう、そうですか。木村さんは全国水平社運動以来の部落解放運動の長老住井すゑさんの『橋のない川』の主人公のモデルといわれる人ですね。六月十一日に亡くなられましたが……。


 鳥飼 亡くなられる直前、五月末でした。京都の部落問題研究所でお会いしました。木村さんも若いころ結核にかかって、『死線を越えて』を読んで、人生観か一変したのだということでした。“無私”の生き方があることを知り、青年団活動、そして水平社の活動に打ち込んだのだということです。「いまも、あのときの思いがつづいている」と興奮ぎみに二時間ほど話しつづけられました。


 日隈 それは貴重な証言です。木村さんの最後の証言ということになりますね。


賀川豊彦 一八八八〜一九六〇年。キリスト教社会運動家。一九〇七年神戸神学校へ進み、葺合新川で伝道。一四年アメリカ留学。一七年帰国後、神戸で伝道、救済活動。労働・農民・水平・協同組合運動、消費者運動などで活動。二〇年刊行の自伝小説『死線を越えて』がベストセラーに。中国、カナダ、アメリカなどでも講演活動。戦後も、政治、国際舞台で活動した。著書に『賀川豊彦全集』全24巻〉


<鳥飼慶陽さん 一九四〇年、鳥取県生まれ。八四年、同志社大学大学院神学研究科修士課程修了。滋賀県仁保教会伝道師、神戸イエス団教会伝道師を経て、六八年、番町出合いの家開設。現在、同出合いの家牧師。兵庫部落問題研究所事務局長。著書に『部落解放の基調−宗教と部落問題』(創言社)『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所)など。>