「賀川豊彦と現代」(第7回)(絶版テキスト化)




 賀川豊彦と現代(第7回


 絶版・テキスト化


        Ⅱ 新しい生活の中から(1)


         二 救霊団(注1)の諸活動


          1 小さな「家の教会」



 賀川の新しい生活は、身体上の不安をかかえてはいたものの、おそらく青年らしい意欲に燃えたものであったに違いありません。生来のロマンチストで詩人でもあった賀川ですから、一層この出発には、ある孤絶の中でのひそかな使命を抱いていたことでしょう。


 彼は、一九〇九(明治四二)年の歳の瀬にここへ移り住みますが、「葺合新川」との関わりはすでにそれ以前にありました。それは当時、路傍説教という辻説法が行なわれていて、賀川も神学生として幾度もこの地域に出かけていました。ですから、彼がここで活動を開始する直接の契機は、この地域との具体的な出会いが大きいと言わねばなりません。


 ところで、これまでは外からわざわざ出張してきて、一時的に、しかも文字通り路傍で説教を行なうだけでしたが、今度は自らその住民の一人として、四六時中生活を共にすることになります。


 彼のまず落ち着くことのできた家は、表三畳、裏二畳、五畳敷の一部屋で、以前そこで殺人があり、そのときに飛び散った血痕が壁にのこされ、夜になると幽霊が出るとかで、そこは借り手のない空家でした。


 賀川は、最初のほどとくに何か組織的な事業を始めるというのではなく、ただそこで共に生きるという志しで歩み始めたものでした。ですから、いわゆる「セツルメント活動」の構想は彼の中にはあったに違いありませんけれども、それはまさに揺藍期の賀川流セツルメント活動と言えるもので、キリスト教の「伝道」活動と「救済」活動を二本の柱にした「救霊団」といわれる小さな「家の教会」としてスタートしました。


 彼がアメリカヘ留学するまでの四年半ほどの生活の様子は、小説『死線を越えて』(一九二〇年)とその続編『太陽を射るもの』(一九二一年)や、先にあげた武内の口述記録『賀川豊彦とそのボランティア』(一九七三年)などに詳しく記されています。また、賀川の当時の貴重な日記類も保存されており、そうした文献資料をとおして、わたしたちにもその生活のあとを知ることができます。


 ここではただ、よく知られている二、三の点だけ取り上げておくことにいたします。それは、彼にとって衝撃的な悲しい事件であった。“貰い子殺し”のことと、遂に賀川の心をなごませ、苦楽を分ち合うことになったふたりの同労者―−武内勝と芝ハル子―−のことについてです。


(注1)救霊団
 一九一一(明治四四)年二百発行の『救霊団年報』第二号によれば、「事業報告」の項目に次のことがあげられている。
 伝道、無料宿泊所、病者保護、医薬施療、無料葬式執行、生活費支持、児童愛護、家庭感化避暑、避暑慰安旅行、職業紹介、裁縫夜学校、一膳天国屋、クリスマス饗宴と慰安会。
 また『年報』には、「論説」「祈祷日課」「三畳敷より」「会計報告」「瞑想詩」などが収められている。






            2 『涙の二等分』


 まず“貰い子殺し”について「分析」した『貧民心理之研究』の中の一部を紹介いたします。


 「……『嬰児殺しは五分の罪が社会にある』とハブロック・ユリスが云うて居るが、私はそれに違いないと思うて居る。日本に於ける貧民の犯罪といえば先づ貰い子殺しであるが、私は毎年数人の貰い子殺しの葬式をした経験上、如何に之が悲惨なるものであるかをよく知って居る。明治四十四年の調査によれば、大阪の難波と日本橋の貧民窟ばかりで三百八十四名の貰い子殺しがあって、その半分以上はその年の内に殺されるのであるそうな。私は神戸葺合新川に、幾人の貰い子が有るか取り調べた事はない。然し百人の貰い手があることは決して疑わない。之らは多く貰い子専門の口入れ屋が有って、主として私生児、不義姦淫の子を安全に殺す機関として自然的に出来たものである。……私の今まで見た数十名の貰い子殺しに就て見るに、その多くは一時いくらか困った金を融通する為である。貧民で一度に五円の金をうることは余ほど困難である。それで子供を貰って世話をして、五円なり十円なり、一度に融通をつけて呉れるならば、貧民は飛びつくのである。」


 葬式もなしに火葬場に運ばれる悲しい運命の子どものために賀川は、右にも述べているように、幾人もの貰い子の葬式を執り行なっています。そして或るとき、一人の“貰い子殺し”の常習者の老婆が、窃盗か何かの容疑で検挙されたことを耳にし、すぐ警察署にかけつけました。幸いまだ生命のあった嬰児をひきとり、自分の家で育てようとします。その頃彼はまだ学生で、しかも試験の最中でした。


 詩集『涙の二等分』(一九一九年)は、新しい生活を始めて満一〇年のときに刊行されたものですが、その巻頭に、書名ともなった「涙の二等分」と題する作品が収められています。その一部を紹介します。


 おいしが泣いて/目が醒めて/お痩柳を更へて/乳溶いて/椅子にもたれて/涙くる。/男に飽いて/女になって/お石を拾ふて/今夜で三晩/夜昼なしに働いて/一時ねると/おいしが起す。それでも、お母さんの/気になって/寝床蹴立てゝ/とんで出て/穢多の子抱いて/笑顔する。(中略)おい、おいし!/おきんか?/自分のためばかりじゃなくて/ちっと私のためにも/泣いてくれんか?/泣けない?/よし……/泣かしてやらう!お石を抱いて/キッスして/顔と顔とを打合せ/私の眼が涙汲み/おいしの眼になすくって……/『あれ、おいしも泣いてゐるよ/あれ神様/おいしも泣いてゐます!』


 ※この詩は最近の「賀川批判」の中で、「穢多の子」云々の表現とともに、賀川の部落問題認識とも関わって「あわれみや同情で部落解放はできぬ」とする指摘がなされています。その指摘自体は間違ってはいませんが、しかしそのような読み方だけでは、賀川自身の真意を深く理解したことにはならないでしょう。


 この幼な子は、そのあと生みの親の手に引き取られ、賀川もひそかにその成長を見守ったと言われます。


   (次回に続く)