「賀川豊彦と現代」(第6回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第6回


  絶版・テキスト化



        Ⅱ  新しい生活の中から(1)


          一 「葺合新川」の実態


          1 日本一の「貧民窟」


 賀川の新しい生活を記すためには、まず「葺合新川」とよばれた当時の地域の実態について見ておかねばなりません。賀川が神戸を本拠に活動した明治四○年代はじめから大正期一〇年代半ばまでの地域のことに関しては、賀川自身の著書の中に数多く書き残されており、それらの記述が今日では貴重な証言になっています。一九〇六(明治三九)年一二月の『神戸新聞』で一三回にわたって連載されれた木工冠『貧民窟探検記』その他、いくつかの重要な証言も残されていますが、ここでは賀川の証言をとおして、実態の概要を記すことにいたします。


 この地域は、現在すでに同和対策事業等で以前の面影はすっかり消え失せ、近代的な高層住宅街に変貌していますが、賀川が生活をはじめた頃は、すでに人口が膨脹し、大正期に入っても一層その増加率は増大しつづけています。


 もちろんそれは、この地域だけの現象ではなく、当時の葺合区全体(現在では「葺合区」は「生田区」と合併し「中央区」となる)が増加しています。たとえば、葺合区の一九一 一(明治四四)年の戸数と人口は、一六、八五二戸、六五、四七二人で、一八八三(明治一六)年当時に比べて戸数で一四・五倍、人口で一四・一倍にも達しています。


 ところで、この「葺合新川」とよばれた地域の形成は、「人足屯所百人部屋」と「屠牛場」が新生田川の川尻に移転された明治一〇年代の後半頃と言われています。『毎日新聞』の横山源之助(注1)による連載記事「神戸の貧民部落」(一八九七年一〇〜一一月)によると、一八九七(明治三〇)年にはすでに四〇〇戸余りがこの地域に在住しており、『神戸新聞』の一九〇六(明治三九)年の記事では、それが一九〇五(明治三八)年当時、戸数六五六、人口二、五六八とされています。そして、一九〇八(明治四一)年の神戸市調査では、戸数一、六九一、人口六、五七四、さらに、賀川の『貧民心理之研究』(一九一五年)によれば、一丸一一(明治四四)年には戸数一、九四四、人口七、五一〇となっています。


 このように、この地域には各地から仕事を求めて移住してきた人々からなる一大スラム街が形成され、各地の「部落」からも数多くここに住みつくことになるのです。


『貧民心理之研究』の中から、まず住宅事情にふれた箇所の一部をあげてみます。

 「神戸の貧民窟というのは七ヶ所ある。……しかし、最も激しいのは私の住んでいる新川の貧民窟で、神戸でも一番人口の密な処である。……東京にもよくあるが、日本で一番野蛮な貧民窟名物二畏敷というのがある。棟割長屋の汽車のようなものに一坪半ぐらいの家が鈴なりに連なっているのである。そして畳が二畳敷。それに或る家には九人も住んでいるものがあった。」「南京虫が多い! 私の家などでも、一年中南京虫の絶えたことはない。…七月になれば毎晩私などは枕元で四、五十匹の南京虫を殺す。……南京虫がおそろしくて自殺するものもある。」


(注1)横山源之助(一八七〇−一九一五)
 富山県生まれ。一八九四年毎日新聞記者となり「天涯茫々生」の筆名で都市下層社会のルポを発表。一八九九年『日本之下層社会』『内地雑居後之日本』を刊行。






            2 仕事と環境


 次に、仕事について書かれた個所をみますと、この地域にはおよそ四五種の職業があったと言われます。


 「仲仕、屎汲、日雇、人力車夫、馬丁、寵細工、青物屋、木挽、古俵買、農業、表具師、僧侶、船乗、手伝、土方、按摩、大工、魚屋、らは管換屋、市役所人夫、組取、たどん屋、井戸屋、菓子屋、古木屋、燐寸職工、紙屑拾ひ、工夫、古物商、芸人、豊年屋、葬式人夫、鉛職工、屑物買、銭かけ屋、直し、辻占、煮売屋、小間物屋、パン屋、薬売、飴屋、牛肉売……。」


 右の職業のうち多いものは、仲仕、土方、手伝、職工の順で、当時ここには駄菓子屋が二六〜七軒、関東煮屋が一二〜三軒、飴屋一軒、どろ焼屋数軒、餅屋・瓦煎餅屋、まんじゅう屋五軒、屑拾い一〇三軒などがあったと記されています。


 さらに、健康と衛生の状態について、彼は『精神運動と社会運動』(一九一九年)で、次のように書き残しています。


 「貧民部落に最も欠如しているものは、善良なる飲料水である。……人口八千人に対して水道の活栓は僅か五個しかない。彼等は多く不潔なる井戸にその飲料水を仰いでいる。」
 「兵庫県の建築条件によると、なるべく一戸に便所一つを備えなくてはならぬことになっているが……この点は実に不潔きわまるものであって、私の住んでいる近所などで平均十戸に便所一つぐらいの割になっている。……伝染病の時など実に惨たんたるものである。」
 「貧民窟の入浴場のごとき、私などはいつもその風呂に這入ると湿疹の絶えたことはなかった。」


 一九一四(大正三)年に、済生会がこの地域に臨時出張所を開設して診療活動をしていますが、それを報じた『神戸又新日報』の記事があります。それによれば施療した延人員二、四四四名のうち、トラホーム患者が最も多く六割以上を占め、さらに梅毒患者についで肺結核患者が多いとされ、この原因は「家屋の構造のため空気の流通を悪くして、下水排水の不完全から床下に湿気をもち、何時しか肺を冒されるので、これらは決して軽々視すべき問題でない」と訴えています。


 賀川は、自ら結核その他、死線をさまようほどの病気のまま、先にみたような志しを与えられて、ここで生きはじめるのです。


    (次回に続く)