「賀川豊彦と現代」(第5回)(絶版テキスト化)



  賀川豊彦と現代(第5回


   絶版テキスト化


       第一章 苦悩と冒険

  
        二 賀川の全体像


          I 幅広い活動分野


 さて、本書は賀川の全生涯にわたる活動の全体像を明らかにすることに主眼がおかれているわけではありませんが、ここで少し彼の幅広い活動分野のいくらかに言及しておくことにいたします。


 賀川の足跡は、全二四巻に収められた『賀川豊彦全集』(キリスト新聞社)をはじめ、先にあげた横山春一『賀川豊彦伝』(同上)、隅谷三喜男(注1)『賀川豊彦』(日本キリスト教団出版局)、武藤富男『評伝・賀川豊彦』(キリスト新聞社)、林啓介『炎は消えず』(井上書房)、武内勝口述・村山盛嗣編『賀川豊彦とそのボランティア』(同書刊行会)など、多数の文献をとおして、その大要を知ることができます。


 その活動は、人々のよくするように大きく次の分野に分けることも可能でしょう。それは、①社会福祉事業、②労働運動・農民運動・協同組合運動、③教育運動、④宗教活動・平和運動、⑤救援活動、⑥文筆活動などです。しかし、これらのどの分野も、彼もしくは彼らがその時代状況の只中で切り開いてきた独自な開拓的仕事であって、その評価は当時もいまもけっして一様ではありません。


 (注1)隅谷三喜男(一九一六〜)
 東京女子大学長。賀川豊彦生誕百年記念実行委員会委員長。


              2 大衆的国際人


 しかし、次のような賀川に対する賛辞(『神はわが牧者』所収の大宅壮一(注1)のことば)は、同時代を生きた人々の率直な声を代表する一例と言えるでしょう。


 「・・・近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙し得る者を一人あげようと言うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――それは賀川豊彦である。」


 たしかに賀川は、生前の或る時期、アフリカ・ランバレネで医療活動に打ちこんだA・シュヴァイツァー博士(注2)とインドの独立に貢献したM・ガンジー(注3)と並ぶ大人物として評されたときもありました。けれども今日では、こうした人々の足跡も批判的吟味の対象となるか、または人々の関心の外に追いやられてきていることも事実です。





 ただ、よく言われることですが、賀川の名は日本国内でよりも外国においてよく知られ、“ドクター・カガワ”として今でも親しまれています。それは、彼の献身的な社会活動と旺盛な文筆活動、とくに彼の著書が多数諸外国へ翻訳出版されたことも大きな役割を果たしました。


 さらに賀川自ら世界各国――南北アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、中国、台湾、インド、オーストラリア、ニュージーランドなど――へ幾度も海外講演に出むき、直接アピールした結果によるのでしょう。


 また、賀川は北海道から沖縄まで日本国内、ほとんどくまなく農村の奥地にまで足を運びました。なかでも特徴的なことは、賀川の救援活動への意欲です。たとえば、彼が神戸を離れるひとつの契機ともなった一九二三(大正一二)年の関東大震災では、神戸の「イエス団」あげて救援物資を集め、自ら上京して組織的な活動に専念しました。また一九二七(昭和二)年の奥丹後地震、六年後の三陸沖大津波、一九三四(昭和九)年の東北冷害、一九三八(昭和一三)年の神戸大水害、一九四三(昭和一八)年の鳥取地震、さらに一九四五(昭和二〇)年の戦災では、国の救援委員会の委員長として関わっています。その組織的行動力には目をみはらせるものがあります。


 (注1)大宅壮一(一九〇〇〜一九七〇)
 大阪府高槻市生まれ。一九二五年新潮社嘱託となり『社会問題講座』を編集。社会評論家として活躍し、戦後も「駅弁大学」「恐妻」などの流行語をつくりだした。
 (注2)A・シュヴァイツア―(一八七五〜一九六五)
 ドイツの神学者、哲学者、医師、音楽家。一九五二年、ノーベル平和賞受賞。
 (注3)M・ガンジー(一八六九〜一九四八)
 インド西部ポールバンダル生まれ。英国で法律を学び、インド独立のために反戦非暴力・不服従運動を展開。「マハトマ(偉大な魂)・ガンジー」とよばれる。


          3 宮沢賢治(注1)と賀川


 こうした賀川の社会的実践を考えるとき、誰でも想い起こすのは、ほぼ同時代を生き三七歳の若さで逝った宮沢賢治のことです。ふたりの魅力は、もちろんそれぞれ独創的で、むしろ対照的な個性を発揮いたしましたが、両者とも肺結核で苦しみ、独自な宗教性と詩心に恵まれ、どこか共通する魅力を与え続けています。没後発見された有名な詩「雨ニモ負ケズ……」にみられる宮沢のおもいは、賀川が没頭した社会活動と二重写しになるようにおもわれます。


 雨ニモ負ケズ 風ニモマケズ(中略)東二病気ノコドモアレバ/行ッテ 看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテ稲ノ束ヲ負ヒ/南二死ニソウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイイトイヒ/北ニケンカヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ/ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハ/オロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/ソウイウモノニ/ワタシハナリタイ


 賀川は生涯のあいだ、数多くの組織・団体をつくり、その責任ある位置に立だされてきました。そうしたもののほかにも、公的な役職に多く任じられています。順不同ですが、たとえば次のようなものがあげられます。


 帝国経済会議委員(不良住宅地区改良委員)、中央職業紹介委員、社会保険調査委員、厚生省顧問、厚生省戦災援護参与、議会制度審議会委員、食糧対策審議会委員、東久蓮宮内閣参与、貴族院議員、東京都社会局嘱託、神戸市および尼崎市顧問、神戸市教育委員、兵庫県および大阪府救済協会嘱託等々。


 それでは、早速、賀川の「新しい生活」を見ていくことにいたします。


 (注1)宮沢賢治(一八九六〜一九三三)
 本所賀川記念館主事・服部栄氏が『賀川豊彦研究』第四号の巻頭言で「宮沢賢治賀川豊彦」と題して美しいエッセイを寄せている。これは興味深い研究課題のひとつである。


  (次回に続く)