「賀川豊彦と現代」(第4回)(1988年)


上は賀川豊彦の小説『嵐にたえて』(同時進行の本日のブログ「賀川豊彦の魅力」 http://keiyousan.blog.fc2.com/ )


賀川豊彦と現代(第4回


  1988年・テキスト化版


  第一章 苦悩と冒険


   一 新しい出発


            4 闘病と懐疑


 賀川は、明治学院在学中でも健康はすぐれず、血痰が出たり微熱がつづくなど、幾度か意識不明の状態に陥りました。神戸神学校へ入学後も喀血し、神戸衛生病院や明石の湊病院で入院加療を余儀なくされます。翌年(一九〇八年)復学後も、結核性の蓄膿症の手術で一時危篤状態になり、さらに痔痩の手術をするといった具合で、その都度不思議にも一命をとりとめるのでした。


 賀川がその療養中に記した“薄命”と題する詩の一篇を、次にあげておきます。


    夢も結ばず、熱もさめず、唯思ふ――
    わが生命の夢と浮ぶを。
    立ち上り 筆を求めて書く、
    わが身薄命 神何をか 我に求むと。
    筆は走らず、思ひは乱れて、涙のみせく、
    時に 夕陽の 憎く 笑ふ。
    五歳の秋 父母に別れ
    十六 兄を失って 孤独!
    身はイエスと 生きんとすれど、
    貧しき者は 天国に遠し
    肉は (あゝ)亡びぬ。
    他に霊もらん 器心なし、
    眼をすえて、自滅の最後、笑んで 待つ。
                      (『涙の二等分』)


 賀川はこうして、「決断」の年・一九〇九(明治四二)年を迎えるのです。彼は寄宿舎の一室で学生生活を送っていましたが、この年の正月に、肺結核であることを理由にそこを追われようとします。当時の「日記」にはいくどもいくども“絶望”“自殺”“嘘”といったことばが綴られています。


 「私は絶望だ。絶望だ。絶望だ。人生の価値を全く疑って終った。一晩泣いた。」(五月三〇日)


 そして、同じ頃書いた小論「無の哲学」にも、次のような記述がみられます。
 「私は私にさへ価値の精神があれば、世界は墓の様でも、生きてゐると云ふたが、生きてゐる価値は実際にあるであろうか? ・・・死ぬ積りで生きて居ればなどと昔は云ふたが、今生きて居らぬ程苦が多い。・・・アア生存の価値は根本から疑われた。人間は何故生存するのであろうか? アゝ唯、解決は之だ・・・死だ・・・死、死、死……。」


 ところが、賀川は右の言葉に続けて、次のように記すのです。


 「・・・神様はこんな無価値な人生の中にも住んでゐらっしやる。神様は全智全能でゐらっしやるのに、よくまあこんな無価値の世界に住めることだ。神様は無価値でも生きてゐらっしゃる。・・・神様も奮闘してゐらっしやる。アゝ私も神様の様に奮闘しよう。アx神様も苦しんでゐらっしやる。神様、神様・・・。」


             5 新しい決意


 賀川は、若くして幾重もの苦悩を経験しながら、ついに自己そのものについての新しい発見へと導かれるのです。無価値とばかりおもわれるこの自己も、この世界も、単にわたしがそうおもうように無価値であるのではない。むしろ全く逆に、このわたしも、この世界も、わたしたちがどのように不信と争乱のもとにあろうとも、はじめからわたしたちを無条件に価値あらしめる方が、すべての人・物と共におられ、奮闘しておられるのだ。何故これまでこのことに気づかずに来たのだろう・・・と。


 一度ならず幾度も、死線をさまよった彼にとって、この新しい幸いな目覚めは、身体上の自らの病いに対するつきあい方をも変えさせていきました。明日をも知れぬこの身でも、日々かわらず奮闘しておられる方が共におられるのだから、立ち上って歩みだすことができることを知ることができたのです。


 賀川の超ベストセラー『死線を越えて』(一九二〇年)の中には、新見栄一の名でそのときの思いを、次のように語らせています。


 「どうせ近い中に死ぬのだから、・・・死ぬまでありったけの勇気をもって、もっとも善い生活をおくるのだと決心・・・。
 ・・・貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい。そのために貧民窟で一生送るという聖い野心を遂げるまでは死なぬという確信をもっていた・・・」


 彼が、このように「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」という「聖い野心」をいだくに至るには、少なくとも直接的には、次のような出会いがありました。


 そのひとつは、一九〇七(明治四〇)年に明治学院から神戸神学校に移るとき、彼が喀血のためまさに生死をさまよう窮状のおりに、家族をあげて行き届いた看病をしてくれた牧師の一家がありました。これは、彼にとって生涯忘れられない経験として心に刻みこまれたのです。


 この牧師は、長尾巻(注1)といって、徹底した清楚な生活を行ない、いつも飢えた人びとを牧師館に泊めては食事を共にし、蚤や虱のわくのもいとわず、親切に世話をし続けました。彼は、こうしたひとつの家族の生活ぶりに心打たれ、そこにハッキリと「イエスの精神」を見たのです。


 賀川はまた、徳島にいた頃すでに書物をとおして、ロンドンの貧民街で働いていたA・トインビーのことや、トインビー・ホールの建設者・S・バーネット(注2)のことは知っていました。そして明治学院ではF・モリス(注3)やC・キングズリ(注4)のキリスト教社会主義についても学んでいました。加えてさらに、彼が特別に関心を寄せたのは、J・ウェスレー(注5)が同じくロンドンの貧民街で伝道活動をしていたことでした。


 賀川にとってウェスレーは、同じ結核の病いをもつ同病者ということもありましたが、彼はウェスレーの日記を読み、大西洋を帆船で横切るモラヴィア兄弟団(注6)の人々が、自らは船酔いのために血を吐いているにもかかわらず、他人を看病した事実などに接し、深い感銘を受けました。


 賀川にとって、学問研究と創作活動に対する強い情熱は人後に落ちぬものがありましたが、同時に人々に仕えて生きる生き方を自ら実践する道への促しが、日増しに強くなっていきました。


 このようにして、二一歳の神学生・賀川は、一九〇九(明治四二)年一二月二四日、クリスマスの前日(イブ)の午後、当時すでに日本有数の都市貧民街であった「葺合新川」で生活を開始することになったのです。彼にとっては、ここが「神様が奮闘しておられる」場所として見えたのでしょう。ここからまた、賀川の新しいドラマが始まるのです。


 (注1)長尾巻(一八五二〜一九三四)
 一八八六年北陸英和学校神学部卒。一九〇八〜一九一二年豊橋市日本基督教会牧師。
 (注2)S・バーネット(一八四四〜一九二一)
 英国教会の社会事業家。一八六九年慈善協会を設立。
 (注3)F・モリス (一八〇五〜一八七二)
 英国教会聖職、神学者キリスト教社会主義運動の代表者。ケンブリッジで道徳哲学を講じる。
 (注4)C・キングズリ(一八一九〜一八七五)
 英国教会聖職、社会小説作家。ケンブリッジで近代史を講じる。
 (注5)J・ウェスレー (一七〇三〜一七九一)
 オックスフォードで講じて後、北アメリカ、イングランドスコットランドアイルランドに伝道旅行をつづけ独自の信仰覚醒運動を展開。メソジスト教会の創設者。
 (注6)モラヴィア兄弟団
 一五世紀ボヘミア宗教改革の先駆者フス派から生まれたボヘミア兄弟団直系の一派。


   (次回に続く)