「賀川豊彦と現代」(第3回)(1988年)


「旧ハッサム住宅」の震災で落下した煙突(「番町出合いの家」の本日のブログ http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ )




 賀川豊彦と現代(第3回


 1988年・テキスト化版


            I 苦悩と冒険


            一 新しい出発


     1 逆境の中で


 賀川豊彦は今からちょうど百年前の一八八八(明治二一)年七月一〇日、神戸市兵市島上町一〇八番地に、父賀川純一(注1)と母かめの次男として生まれました。そして一九六〇(昭和三五)年四月二三日、七二歳の生涯を終えました。彼の波乱に富んだ歩みにも、本書ではいくらか言及いたしますが、ここではまず、賀川がその若き日、どのような経緯で、当時「葺合新川」とよばれていた「貧民窟」での新しい出発をするに至ったのかについて見ておくことにいたします。


 ひとは誰でも、その生涯の中で幾度か、ひとつの節目ともなる重要な「決断」をおこないます。そしてそれには、或る未知の人生に挑むような「冒険」を伴います。この「決断」と「冒険」は、青春の徴しであり特権のようなものかも知れません。そしてひとそれぞれに、そこに至るそのひと固有の背景なり契機が秘められています。賀川の場合も、こうした歩みへ突き動かすいくつかの「出来事」や「出会い」がありました。


 父純一は、徳島県の豪家の出で、元老院書記官をしていましたが、豊彦の生まれた頃は神戸に出て、回漕店(海運関係の貨物運送の取次業)を開業する実業家でした。母かめは、心やさしい美しい人であったと伝えられています。ただ、賀川自身も述懐していることですが、当時周囲から豊彦は「妾の子」などと中傷され、幼い心に深い傷痕を残したと言います。そして四歳のとき、父は四四歳の若さで急逝し、母もこれを追うようにして帰らぬ人となり、たちまちのうちに豊彦ら五人の子どもたちは、それぞれ分かれて親戚に引き取られて暮らすことになるのです。彼と姉のふたりは、父の実家のある徳島阿波の東馬詰というところに移り、義母と義祖母に育てられます。


 こうして一三歳の頃には、当時まだ不治の病いとして人々に恐れられていた結核に罹患しており、さらに一五歳のとき、この実家の賀川家が破産に見舞われるといった、人並みの試練と逆境の中での成長を強いられることになります。


 (注1)賀川純一(一八四九〜一八九二)
 政治結社・自助社を組織。板垣退助を知り、その推薦で元老院書記官に抜てき。ある事件で職を辞し徳島に帰郷。その後実業界へ。一八八〇年神戸に「賀川回漕店」を開く。



      2 ふたりの師


 しかし、賀川は小学生の頃から読書を好み、成績も抜群で、徳島中学へとすすみます。この時すでに語学にも秀でていた彼は、徳島市内で宣教師が英語講義をしていることを知り、そこでC・A・ローガン博士(注1)に出会います。博士は、米国の師範学校の校長もしていた温厚な人柄であり、賀川はそこで英語への関心の深まりと同時に、キリスト教に対する強い興味をいだくようになりました。


 同じ頃さらに、ローガン博士の義弟でH・W・マヤス博士(注2)夫妻との出会いが始まります。このマヤス博士に対しても、賀川は終生師とあおぐようになります。それは、賀川が経済的に困窮しているときのよき支えであっただけでなく、博士夫妻からの人格的な影響の大きさによるものでした。そして、先にしるした賀川家の破産という予期しなかった逆境からの脱出も、夫妻との出会いをとおして目覚めることができたキリスト者としての新しい出発と深く関係していました。


 こうして、中学時代の彼は、J・ラスキン(注3)の『胡麻と百合』を翻訳して、徳島毎日新聞に連載したり、キリスト教書のみならず当時の社会主義思想家やトルストイ(注4)の文学書など、幅広い読書をはじめています。


 (注1)C・A・ローガン(一八七四〜一九五五)
 米国ケンタッキー州生まれ。一九〇二年頃宣教師として来日。徳島中学や徳島市内の夜間中学でも英語を教えた。
 (注2)H・W・マヤス(一八七四〜一九四五)
米国バージニア州生まれ。ワシントン・リー大学、ルイスビル神学大学院を卒業後、一八九七年南長老派ミッションの宣教師として夫妻で来日。一八九八年に徳島で活動をはじめる。
 (注3)J・ラスキン(一八一九〜一九〇〇)
 イギリスの美術批評家、社会評論家。
 (注4)トルストイ (一八二八〜一九一〇)
 『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』で名声を得、『復活』『人生論』などで現代思想・文学に大きな影響を与えた。



      3 明治学院


 一九〇五(明治三八)年春、賀川は徳島中学を卒業して、明治学院高等部神学予科に進学しています。彼は明治学院に入ってからも、いっそう旺盛な向学心と知識欲に燃え、食事中や入浴中にまで洋書を読みふけるなどして、同僚や教授陣を驚かせました。


 しかし、明治学院の大学教育や将来自ら責任を負って第一線に立つべきキリスト教界の現状は、溢れるような若々しい彼の魂を必ずしも満足させるものではありませんでした。この当時のキリスト教は、日本ではプロテスタント教の宣教がはじまって半世紀を経て、初期にみられたような、日本社会の各分野への新しい価値観の転換をせまるような開拓的なバイタリティーが徐々に失われていく時期にありました。内村鑑三(注1)など一部のキリスト者は、独自な活動を継続していましたが、キリスト教界の多くは、「教会活動」に自足する傾向にあったのです。


  



 徳島にいた頃から賀川は、社会の矛盾や不合理に目を開いていましたが、明治学院にすすんでからも、幸徳秋水(注2)や堺利彦(注3)などの書物に刺激をうけ、非戦論を弁じたりしています。
 こうして二年間の予科を終え、その後、マヤス博士のすすめもあって、神戸の熊内にS・P・フルトン博士によって開校された神戸神学校へ転校してきます。


 (注1)内村鑑三(一八六一〜一九三〇)
 一八九七年『万朝報』英文欄主筆となり、翌年『東京独立雑誌』を刊行。一九○○年『聖書之研究』を創刊し、日露戦争開戦の折は非戦論を唱える。
 (注2)幸徳秋水(一八七一〜一九一一)
 高知県中村市生まれ。民権運動の指導者中江兆民の影響を受け、一九〇一年片山潜らと社会民主党創立に参画。一九一〇年大逆事件の首謀者にでっちあげられ、翌年処刑された。
 (注3)堺 利彦(一八七一〜一九三〇)
 福岡県豊津町生まれ。一九〇三年幸徳らと平民社を創設し『平民新聞』で非戦の論陣を張る。一九〇六年『社会主義研究』発刊。一九二二年の日本共産党の結成に参加、初代委員長。
 (注4)S・P・フルトン(一八六五−一九三八)
 米国南カロライナ州生まれ。一八八八年来日、明治学院で神学を担当。神学・法学博士。


   (この項次回に続く)