「『賀川豊彦と現代』その後(1991年:賀川豊彦学会例会)


ぶらり散歩「烏原貯水池」






 賀川豊彦と現代』その後


    賀川豊彦学会例会:1991年3月23日


              はじめに


 本日(一九九一年三月二三日)は、このような機会を与えていただきありがとうございます。私も「賀川豊彦学会」の会員として加えていただいています。矢島浩先生の熱心なお勧めを頂きながら、その後何もまとまったことができていません。ただ、この小さな作品(『賀川豊彦と現代』)は、キリスト教界というよりそれ以外の方から、思いがけない反響や共感をいただきました。もう三年近く前になりますが、現在もお求めの方があります。色んな形でお話をしたり、求めに応じて寄稿いたしました。


 「イエスの友」の会長・金子益雄先生は、この本を書くまえ――日本キリスト教団で賀川先生のことが「現代教会と賀川問題」として取り上げられ、第一次「討議資料」が一九九六年(昭和六一年)二月に出されて、私がその年の五月に教団総会議長の後宮俊夫氏宛に、この本にそのまま収めた「質問と希望・意見」を提出したあとでした――神戸の私のところをお訪ねいただき、親しくお話を伺ったことがあります。本日は「研究」らしいものにはなりません。既に六〇回目の研究例会だそうですが、賀川先生の部落問題との関係について短くお話をして、後で皆様のご批判やご意見をお聞かせいただければ有難いと思います。


           1 賀川豊彦学会


 ところで、関東・東日本では、関西・西日本にくらべて部落差別問題は相対的に少ないことや、この問題が長くタブーのように避けられてきたこともあって、部落問題そのものの本質的な理解や現状把握について、正確な理解を深める機会が少ないように思います。「今でも部落問題という深刻な問題があるらしい、どうも分かりにくい問題だから、あまり深人りはしないでおこう」といった感じを与えているように思います。それで、「差別問題」などが指摘されますと、一部の「問題提起をする人々」と指摘された「団体の責任ある人々」との間で、秘かにそしてあまり生産的とも思えないやり取りが繰り返されてきているのが、一般的な現状ではないかと思います。


 当学会の代表をされている磯村英一先生は、御存知のとおり一九六五年に「同和対策審議会」の会長として「答申」をまとめ、今日まで二三年間、大変重要な役割を担ってこられました。折々に重要な「意見具申」をまとめて問題の所在を指摘してこられました。ここでは立ち入ることはできませんが、来年(一九九二年)の三月でこの問題を解決するための最後の法律も終了する段階にまで来ているのです。今後はこれまでのような特別対策ではなく、一般施策のなかで最終的な解決を実現させていく方向が提示され現在に来ています。


 私自身も丁度この間、賀川先生のお仕事とも関わりの深かった神戸の最も規模の大きな地域で、今日まで専らこの問題の解決に関わってまいりましたので、磯村先生の問題意識や解決の方向性については、全面的にというわけではありませんが、共鳴するところも少なくありません。


 この間、多くの人々の努力で、また多額の経費をつき込んで、問題解決のために取り組まれてきました。その結果、住宅環境の改善をはじめ地域の様子は一変してまいりました。そして今、各地で同和対策の「完了・終結」の準備がすすんでいます。これからは、いわゆる「特別対策」のないなかで、「部落民」とか「部落」とかいう枠組ではなく、それぞれの地域の「まちづくり運動」として、また仕事や教育や福祉の問題を、市民的な協同の取り組みとして進めるべく、いろいろな試みが始められています。これ以上「特別対策」を継続すれば逆効果になるという認識のもとで、予定通り来年春には基本的に「特別対策」は終りにする方向で動いています。


 ところが一方では、相変わらず「特別対策」を継続させ、もっと強力な「部落解放基本法」をつくろうという「解放同盟」などの運動に、宗教団体や一部の企業なども「連帯」して、キリスト教界もそれに積極的に乗って活動していることはご存じのとおりです。これは、部落問題の現状と到達段階について、基本的な考え違い・認識不足が存在しているように思います。私は神戸の部落問題研究所で仕事をしていますが、この二〇年間の問題解決のプロセスを見てきています。二〇年前と今日の状況とは大きく違うのです。


           2 部落問題理解の問題


 最近、栗林輝夫氏の『荊冠の神学−被差別部落解放とキリスト教』という五五〇頁近い著書が新教出版社から刊行されました。全体的に大変刺激的で新鮮な作品で、学ぶべきところも少なくありません。しかし残念なことに、今日の部落問題解決の到達段階から見て、余りに掛け離れた観念的な理解をベースに、神学的思索が展開されています。


 この本に「賀川問題と教会」という一節が設けられています。そこでは「賀川こそ日本の最初の解放神学者であるとさえ言える」(四五五頁)が、「賀川の神学そのものに、被差別部落民を低くみて、単なる救済の対象としてしか考えないような『差別体質』があるのではないか」(四五六頁)といった指摘もあります。全体の基調がそうですが、部落差別問題についても、「被差別コミュニティー」「部落民」を固定的・実体的に「神聖視」する見方が貫かれています。こうした傾向は、キリスト教界に広く見られるものですが、やはり「部落問題の基礎理解」の点でも問題を残しています。


 たとえば、今日「部落民宣言」を勧めたりすることの意味は何でしょうか。二年ほど前でしたか、農村伝道神学校の学生の方が「宣言」をした出来事がありました。「宣言」は一時期、二〇年ほど前の状況の中では珍しいことではありませんでしたが、特別法も終わろうとするこの時に、なぜ「部落民宣言」があったりするのでしょうか。このことに関しては、一九七〇年当時、立ち入って吟味したことがあります。それは『部落解放の基調』(創言社、一九八五年)に収めていますので御覧いただきたいと思いますが、「部落民」が特別の存在であるかのような受け止め方は、基本的な認識において問題があります。


 一九七六年でしたか、随分前に『私たちの結婚−部落差別を乗り越えて』(兵庫部落問題研究所)という本をつくりました。当時はまだ若者たちが結婚するとき、自分が部落出身であることを告げるべきかどうかで苦悩を強いられる時代でした。しかし、時代は大きく変化しています。特に宗教界では、問題そのものに対する基本的な理解を欠いたまま、旧いままの認識をひきずってきています。こうした基本認識の欠如が、賀川豊彦のことにつきましても、全く先の見通しのない議論に終始する要因になっています。


 私は長い間、「賀川豊彦と部落問題」については沈黙を守ってきました。学生時代からこの問題は承知していましたし、一九六六年から二年間、神戸の賀川記念館で生活し「神戸イエス団教会」で働きましたから、ずっとこの問題の動向は気に掛けてきました。


 さきの『部落解放の基調』という本でも「宗教と部落問題」、とりわけキリスト教界の問題性についていくらか詳しく検討しましたが、賀川豊彦のことについては主題的に論じることはいたしませんでした。


 しかしながら、一九八四年の教団総会で賀川の問題が「建議」され、最初に申しましたように「教団」として第一次「討議資料」が作られ、各教区・教会に配布されたとき、私はどうしても黙っていることが出来ませんでした。『賀川豊彦と現代』を刊行してから、教団の関係者にも送りましたが、責任ある方からの「応答」は何ひとつ届きませんでした。


 私は自分でできるだけ勉強をして、単なる「質問」の形ではなく、本当に「対話」がすすむことを願って、積極的に賀川豊彦がこの問題に関わってこられた事実を歴史的に確かめ、同時に先生がどのようなお考えで、当時生きられたのか、その志の内側を探って見ることにしました。それがこの拙い書物になったのです。しかし、残念なことにその方々との「対話」はいまだに無いままです。


 失礼な言い方になりますが、「討議資料」の作成に関わられた方々は、実際のところ賀川豊彦について本当にはあまり御存じない方々なのかも知れません。賀川の著作の中の「問題箇所」として指摘されてきたものを「現代教会の問題」に引き寄せて「反省」の素材として整理して、それを諸教会に降ろしてこられる。これでは「聞かれた対話」は進まず、逆に遠ざかっていくばかりです。暫くまだこうした事態が続くことでしょう。


          3 「賀川豊彦全集」問題


 ところで、もう一つの「賀川豊彦全集」問題の「その後」について、少し触れさせていただきます。私はこの本でも、特に章を起こしてその歴史的な経緯と問題点および解決方法について、私案を提出しておきました。


 先ほど実は、はじめてキリスト新聞社の社長さんにお合いしてきました。刊行準備中の武藤富男先生の著作『賀川豊彦全集ダイジェスト』の英訳と復刻のことも伺いました。この企画も「全集問題」が尾を引いていますので少々厄介です。


 それはともかく、一九八二年段階でキリスト新聞社は、「賀川豊彦全集」特に第八巻は「差別文書」であるとの「見解」に立って、「全集二四巻の補遺として「賀川豊彦と部落問題資料集」として刊行する」ことを、問題提起する人々に「解答」していました。その時から数えても一〇年近く経っています。昨年(一九九〇年)七月段階で一一回の「話し合い」が持たれたようですが、これがどうなるのか関心を持ってきました。特に私としては『賀川豊彦と現代』において、後世に禍根を残さないためにも、勇気をもって「新しい方針を確立しなければならない」ことを強く望みました。


 ところが、先日「信徒の友」四月号のキリスト新聞社の広告を拝見すると、全集の「補遺」として『賀川豊彦と部落差別問題』という書名で、近く刊行されるようです。問題はその内容です。実は先ほど、そのゲラを見せていただきました。詳しくは拝見していませんが、これまでの密室でのやりとりが、こうして公開されるという意味はあります。どれほどこのことに関係者が貴重な時間と労力を費やして来たのか、どれだけこのことが積極的な意味を持つものだったのか、歴史的な評価は今後のことです。


 先ほど申しましたように、こうした問題は極限られた人々の間で、秘かに論じあわれてきました。「全集問題」についても同じです。可能なかぎりオープンに、そして然るべき人々の意見を聞きながら、判断を少しでも間違わないようにしなければなりません。


 この「全集問題」の解決の仕方については、当学会にとりましても決してよそ事ではありません。キリスト新聞社だけが窓口になっていますが、ひろく「イエスの友会」も松沢資料館も、また「イエス団」関連のところでも、この問題について幅広く検討をすすめられる必要があります。単なる問題提起する人々への「対策」的な対応に終れば、本当の解決は遠くなるように思います。


 実はもう二年前(一九八九年二月二日付け)になりますが、キリスト新聞社の方から、次のようなお手紙をいただきました。私の『賀川豊彦と現代』も読んでいただいた後のことです。私信を取り上げるには躊躇いたしますが、事柄が事柄だけに、お許しいただけるものと、あえてここで初めて紹介させていただきます。


 「……賀川豊彦と部落問題に関して、部落解放センターその他関係団体との話し合いに当初から関わってきましたが、出版元の責任の問題、私自身の主体性の問題、また日本の教会(主として教団)の体質の問題、賀川豊彦の再評価の問題など、さまざまな問題を踏まえながら思考(「思考」に傍点あり)錯誤を続けております。武藤富男会長は現在は文字通り名誉職となり、共に取り組んで来ました前社長谷畑も会社を去り、現社長名越と私か中心となり、問題を担い続けていくことになりました。編集局長という立場もあって最初から小生が中心となっで外部との対応を進めて来ましたが、解決のつかない問題も多数残されています。ただ先生も『賀川豊彦と現代』の御著書中に触れておられますように、この問題について、もし歴史的洞察を欠落させたまま、当社の結論(全集補遺「資料集」刊行)を公にしてしまうことがあっては、再び重大な問題を残すことになると考えております。以上のような現状ですので、私も以前から一度先生にお会いいただき、ご意見を直接うかがうことが出来ればと考えておりました。もし、近くご上京の機会がございましたら、ご面会をお願いしたいと願っております。……」


 文面からして、氏の人柄を感じさせます。そして誠実に関わってこられた苦悩のあとが感じられます。おそらく氏は、話しておきたいことが多くあったはずです。こうした問題は「聞かれた自由な話し合い」は避けられがちです。ひとたび「差別」を認めた後は、一方的なかたちで事態は推移してしまいがちです。


 先ほどお聞きしましたら、この方は先年ご病気でお亡くなりになったそうです。驚愕いたしました。申し訳ないことをしてしまったと思いました。恐らくこの問題は、ご病気の間も大きな心の重荷であったことかと思います。無念の思いがあったのではないでしょうか。


 こうした問題は、ねばり強くより正しい解き方を探るべきですが、多くの場合「思考錯誤」の積み重ねをしてきています。今度の「補遺」はどんな内容になっているのか、大変心配なことです。もしもこれまでのこの問題に関する経緯で不十分なことがあれば、潔くその不十分なところを正す努力が必要です。私たちは間違いを繰り返してしまいます。自分の考え方が一番正しいものと思い込み、不要な熱が入ることもしばしばです。お互いに率直にそれぞれの感じ方や考え方を出し合って、少しでも問違いの少ない方向を探らなければならないと思います。


           4 賀川豊彦の社会的評価


 こうしたキリスト教関係の乱暴な「賀川批判」がある一方で、思いも掛けず多くの方々が、この小さな本を読んで下さいました。「これまで賀川豊彦に対して誤解をしていた」などと何人もの方からお手紙を頂いたり、マスコミ関係者も好意的に扱ってくださいました。


 地元の「神戸新聞」でも、問題の所在を的確にとらえて大きく報道され、びっくりしました。「共同通信」の若い記者の方から「人」欄で取り上げたいといって取材を受け、それが神戸だけでなく北海道から九州まで、殆どの地方紙に載せられたりもしました。さらに「毎日新聞」の編集委員の方がわざわざ自宅に来られ、これも「人」欄で全国的に紹介してくださいました。こうした反響は、現代においても「賀川豊彦は生きている」ことの一つの見える証拠だと思います。


 部落問題関係の研修会や講演会、また公民館の連続講座の企画などでも取り上げられました。賀川先生の幼少年期のふるさとでもある四国・鳴門市の集まりにも招かれ、お墓にもお参りいたしました。その時に「徳島に賀川記念館はできないか」というご相談もありました。


 また、賀川豊彦と関係の深い「神戸保育専門学院」で、数年前から週に一度「人権教育」の講義を依頼されたり、昨年から名古屋近郊の「中京女子大学」に出向いて「社会教育・同和教育」の集中講義をして、先生のことも取り上げて学んでいます。


 柄にもないことですが、研究者でも何でもない私のところに、色んな方々が賀川先生のことを尋ねてこられてお話しする機会がございます。「卒業論文に取り上げたい」といって話しかける学生もあります。このように「賀川豊彦」に対する積極的な評価は評価として捉え、問題は問題として批判できる見方が大切です。


 なぜキリスト教界は、こうも一面的な「断罪」に力点が置かれてしまうのでしょうか。これでは、逆に問題解決を大きく遅らせます。磯村先生が「意見具申」などで指摘されていますように、現在も「行き過ぎた確認・糾弾」「エセ同和行為、利権・暴力」などが横行しています。政府機関が「意見具申」でこうした「運動行為」を批判するのも異例ですが、そういう「解放運動」が現在も一部に残されていて、キリスト教界もこれに同調する結果になってしまっているのです。


               おわりに


 この本を書き上げてから、先生についてもっと全体的に学ぶことが必要だと考えるようになりました。『賀川豊彦と現代』では、賀川の神戸時代(一九二四年)までを取り上げましたが、公民館での連続講座などでは「戦時下の歩み」を取り上げ「特高資料」などを読んだりしました。戦後の「天皇(制)」については今日でも問題になりますが、これについても学び直してみたい主題です。また学会で、岸英司先生が「賀川とシャルダン」の思想研究を発表されていますように、賀川の神学思想も注目されています。


 最後に「なぜ賀川豊彦のことを学ぶのか」という点に触れておきます。
 私たちが先達に学ぶのは、先ず先達への尊敬と信頼の思いが存在しているからだと思います。そこから本当の理解と批判が可能になるのです。


 賀川豊彦を無批判に持ち上げるのではありません。先生の「志」を現代に新しく発揮して見たいということから学ぼうとするのです。ここ数年の間に、賀川研究も大変活発になってまいりました。基礎的な「史資料」も次々刊行され、研究者の層も膨らんできています。近く、賀川豊彦の『初期資料集』――一九〇四(明治三七)年から一九一四(大正三)年の日記類など――が刊行されます。学会の『論集』も八号を数えました。私は極限られた問題関心から接近しているに過ぎません。ご出席の方々の、新しい賀川研究の成果を楽しみにしています。


 長くモグラぐらしをしている私には、こうして東京の方々の前でお話しのできたことは、うれしい経験でした。ありがとうございました。
                        

                          (一九九一年三月)