「吉田源治郎牧師から見えてくるラクーア伝道」(資料2)



第9回「ラクーア伝道」関係連絡会(2012年10月1日・神戸栄光教会)資料2


賀川豊彦献身100年記念事業の軌跡:Think Kagawaともに生きる』(2010/11)



           仲間 武内勝と吉田源治郎


               はじめに


 2009年は、東京、神戸、徳島などを拠点として「賀川豊彦献身100年」を記念する多彩な取り組みが展開されました。22年前、1988年の「賀川豊彦生誕100周年記念事業」の折も、映画「死線を越えて」の製作上映など国内外で大きな盛り上がりを見せましたが、今回の記念事業はこれに参画された人々の広がりも、取り組みの内容的充実度も比較にならないほどの大きな飛躍を見せました。


 とりわけ「賀川豊彦の献身の場所」が「神戸葺合新川」であったことと、懸案であった神戸の「賀川記念館の再建」という具体的で大きな課題が重なったことも、大きな要因であったように思われます。


 もちろん「賀川記念館の再建」には多くの困難があったはずですが、予定通り2009年の12月12日には「献館式」を、同22日には神戸ポートピアホテルにおける大規模な記念式典と祝賀の宴を、さらに2010年4月17日には「賀川記念館ミュージアム」のグランド・オープンを迎え、7月10日には「賀川豊彦生誕地の碑」の除幕式と記念のイベントなどが続いています。


 ところで本稿の表題は「仲間 武内勝と吉田源治郎」としています。両人とも地味な働きに徹した方であったことにもよりますが、その全体像についてこれまで主題的に論じられたり、まとめられたりしたものは決して多くありませんでした。そんな中で今回、両人を取り上げる報告を求められるに至った経緯は、およそ次のようなことでありました。


 昨年(2009年)、10万回以上ものアクセスがあったという「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシヤルサイト」において、「賀川豊彦のお宝発見」が「武内勝関係資料」を中心にして94回にわたりアップしていただきました。そしてさらに引き続き、今年(2000年)5月から「KAGAWA GALAXY吉田源治郎の世界を訪ねる」(途中から「吉田源治郎・幸の世界」と改称)の新しい連載(10月1日現在87回掲載)が始まっていることが背景にあります。


 このサイトでは、昨年公開の「武内勝関係資料のお宝発見」も併せて閲読可能になっています。両者の掲載は相当の分量になっていますが、ここでは限られた紙面でもあり、「武内勝と吉田源治郎」についての現在の個人的な感想のようなことを、短く自由に綴らせていただくことにしたい。


 (補記:尚2012年9月現在、何故かかつての「オフィシャルサイト」は閉じられて、元共同通信社の伴武澄氏のもとで http://k100.yorozubp.com/ において、上記ふたつの連載は閲読可能になっています。このサイトでは、賀川豊彦に関する膨大なドキュメントが盛り込まれ、さらに補充され続けています。)

             武内勝の世界


 過日(2010年7月1日)、西宮一麦教会の牧師として34年間働かれた森彬牧師から「吉田源治郎」のお話をお聴きする機会がありました。その折の森氏の言葉に次のようなものがありました。「関東のことは分からないが、関西では武内勝は賀川の一番弟子・吉田源治郎は二番弟子と見られてきたと思う」と。


 「弟子」と目される2人が、生前それぞれ賀川との関係をどのように自覚していたかは分からないが、昨年から現在まで2人の足跡を学び続けていて、森氏のこの言葉は私には自然に納得させられるところがあります。


 武内勝は1892年(明治25)生まれ、吉田源治郎は1891年(明治26)生まれでほぼ同い年である。従って、1888年(明治21)生れの賀川とも同年代で、賀川が少々兄貴気分を持つことのできる年齢差で、まさしく賀川・吉田・武内は名物トリオでした。


 武内は、賀川の「葺合新川」献身のすぐから、吉田も、後に妻となる間所幸(こう)は賀川ハルの横浜共立女子神学校時代のクラスメイトであった関係もあり、結婚後すぐに2人とも「賀川豊彦とその仲間たち」の一組(賀川豊彦・ハル夫妻、吉田源治郎・幸夫妻、武内勝・雪夫妻)として、その全生涯にわたって、歩みを共にしてきた間柄です。


 因みに武内勝は、賀川没後6年を経た1966年に74歳で(賀川豊彦は1960年に72歳で没)、吉田源治郎は1984年に92歳でその生涯を終えており、現在もKAGAWA GALAXYの大切な先達として、特に関西では、多くの人々に憶えられている人物であります。


 武内勝口述『賀川豊彦とボランティア(新版)』(村山盛嗣編、神戸新聞総合出版センター)が「献身100年記念出版」の一つとして刊行されたことは周知のことでありますが、今から36年前、1974年の本書の旧版は、武内の静かで飾らない、情熱を秘めた口述記録として、関係者のあいだでこれまで長く愛読され続けてきました。


 「創業当時の回想」という主題によるこの口述は、賀川もまだ健在であった1956年のものでしたが、明治の終わりから大正初期の「賀川とその仲間たち」の神戸における働きが、武内勝の独特の語り口、でユーモアを交えて語られています。


 この口述の行われた数年後、周囲の人々の強い要望に応えて連続10回の口述を試みていたようで、武内のその時の録音テープが、ほぼ完全な形で昨年発見されました。


 話の内容は、先の口述記録とは大いに異なるもので、まさにこれも「お宝発見」の筆頭に上げても良いものでありました。この発見によって、最晩年の「武内勝の肉声」にも出会えることが可能になっています。


 (補記:この貴重な録音テープは、現在神戸の賀川記念館のホームページにおいてネット上で聴くことが可能になっています。)


              武内勝の略歴


 「武内」はよく「竹内」と間違えられている場合が多くあります。雨宮栄一氏の労作『青春の賀川豊彦』(新教出版社、2003年)でも「武内」に言及した313頁以下の筒所はすべて「竹内」と誤記されています。(誤記で言えば同書318頁に拙著『賀川豊彦と現代』が「キリスト新聞社」刊と間違えられ、私の意図とはまるで違う取りあげられ方をしておられます。もちろんこれは単なる誤記ではありませんが・・。再版の折の訂正を願いたいところです。)


 そこで、武内勝の生涯に関してご存じない方のために、この度の新版『賀川豊彦とボランティア』の奥付に編者の村山牧師が書かれた「武内勝の略歴」を、ここではそのまま引いておきたいと思います。


 「武内勝
 1892年(明治25)9月、岡山県邑久郡(現瀬戸内市長船町に生まれる。
 1910年(明治43)から、賀川豊彦の同労者として、多彩な宗教・社会活動を助け、神戸における賀川の社会活動の最大の支援・後継者であった。
武内は、口入屋から生まれた職業紹介所が国営に移管となるや葺合労働紹介所長となり、1951年(昭和26)4月に神戸公共職業安定所長を退職するまで、31年間にわたり「日雇い労働者の父」として職業安定行政に従事した。
 彼は、その他に東部労働紹介所長兼西部労働紹介所長、葺合労働紹介所長、神戸公共職業紹介所長、協同牛乳社長、神戸生活協同組合長を歴任し、また、兵庫県職業安定審議会委員、同労働保険組合理事、社会福祉法人・学校法人イエス団常務理事、財団法人愛隣館理事、友愛幼児園長、神視保育園長にも任じられている。
 1966年(昭和41)3月31日、賀川の死から6年後に、武内はイエス団理事会の最中に倒れ、師を追うように他界する。」


 また昨年(2009年)、賀川の名著『友愛の政治経済学』(コープ出版)が翻訳出版され、いま話題を呼んでいますが、訳書の中の第7章「共済協同組合」の項で、賀川が神戸における武内勝の開拓的な取り組みに言及していることは記憶に新しいでしょう。しかしこれも既に「オフィシャルサイト:賀川豊彦のお宝発見」の第24回でも紹介しているので、ここでは取り上げません。


           賀川豊彦のお宝発見」


 昨年、「献身100年記念」の年の春、長年待ちわびていた出来事が起きました。
それは、武内勝・雪夫妻のご子息、武内祐一氏が、今日まで大切に保管しておられた「武内勝関係資料」の閲読をわたしに託されることになったのです。


 祐一氏とは、若き日に神戸イエス団教会に招聘された頃から今日まで、途切れずに友情を温めることができた同輩の方ですが、遂に「武内勝資料の閲読」の時が来たのです。その詳しい経緯もサイト上で記したので割愛し、ここではこの度の「資料」について簡単に記して置くことにいたします。


 関係資料は2つの箱に収められていました。便宜上「第一玉手箱」と「第二玉手箱」と名付け、その整理に当たりました。「第一玉手箱」は、雪夫人の筆で「賀川先生の手紙」と書かれた木箱でした。


 そこには何と、賀川豊彦とハルが生前武内勝に宛てて送った生の書簡や葉書が120通ほどまとめて収められていたのです。全くそれはわたしの予期していなかったことでしたことですので、驚きました。


 前記の武内勝口述記録『賀川豊彦とボランティア』において、賀川から届いたという書簡数通のことが、武内の口から紹介されていますが、何故かそれらの書簡類は、なぜか玉手箱には見当たりませんでしたが、しかし賀川豊彦夫妻の生の書簡が大切に残されていたことは、これだけでも大変なことでありました。


 そして「第二の玉手箱」には、有名な医師・馬島氏や遊佐敏彦氏など知友から届いた書簡や葉書類、これらも真に貴重なものばかりですが、未整理のまま保存されていました。


 また、そこには「賀川先生新川伝道同顧談」をはじめとした武内の手書きの草稿が5本、さらには大変貴重なアルバム4冊なども、愛用の丸い黒ふちの「めがね」も入っていました。


 そして私としては、前から機会あるごとに、特に武内勝氏の奥様・雪さんには、是非「武内勝さんの日記」を読ませていただきたい」と懇願してまいりましが、なんとその願いもかなって、そこには武内勝の手帳33冊と大型ノート(昭和2年から4年までの「日記」記載ほか)が残されていたのです。


 こうして私の最初の作業は、これらの諸資料をまず分類・整理し、書簡類も年代順に並べ替えてファイルに収め、武内祐一氏の了解を得て、判読可能なものはパソコンに打ち込んでいきました。


 全くの素人で慣れない作業でしたが、伴武澄氏のサポートのお陰で「献身100年記念事業オフィシヤルサイト」のなかに、「賀川豊彦のお宝発見」というコーナー設けていただき、読みやすく手を加えて、そこでアップが開始されて行きました。それが積み重なって、昨年の賀川献身100年の記念の日、2009年12月24日まで94回の連載となったのです。


 この作業には余禄満載であったのと、「武内資料の閲読」はまだまだ継続中で、上記のように2009年末でストップしております。しかし、この長期連載のあとに、不思議な新たな出来事が起こってまいりました。そこでこの項はひとまずここまでとし、次に進みます。


             吉田源治郎の世界


 さて、現在ネット上で連載中のものは「吉田源治郎」のことです。実はこの人に関しても、私はほとんど知らないお方でありました。


 たまたま上記の武内勝の「お宝発見」の余禄として、私の住む神戸市長田区番町地域における「神戸イエス団」の活動拠点であった「天隣館」――この場所は、賀川や武内、馬島(医師)や芝やえ(賀川ハルの妹)たちの大正時代からの活動拠点で、医療活動のほか日曜学校なども活発で、戦後には保育所を開設していました。――で、戦中・戦後、この「天隣館」を拠点にして活躍していた人々――大垣坦弥・とよの夫妻、河野洋子ほかの方々の聞き取りを進める中から、「吉田源治郎のご子息・吉田摂氏が関西学院の学生だったころ、賀川梅子ら関学神学部の学生たちと共に「天隣館」に頻々足を運んでいて、摂氏は関学グリーで鳴らしたお方である」という情報を小耳に挟んだのでした。是非一度会って、その頃のお話を聴きたいという私の希望から、この新しい出来事が始まったものでありました。それも今年(2010年)4月になってからのことであります。


         吉田摂・梅村貞造両氏との出会い


 渡りに船ということであろうか、有難いことに若き日から吉田源治郎・幸夫妻とは西宮一麦教会及び一麦保育園などで身近に接し、吉田摂氏とも親しく過ごしてこられた梅村貞造氏(現在一麦保育園顧問で西宮一麦教会役員)の積極的な協力もあり、現在甲子園二葉教会(吉田摂氏の所属教会)の元正章牧師も加わり、4月5日午後、第1回の「西宮の一麦保育園における吉田摂氏の聞き取り」が始まったのであります。


 するとどうであろうか、吉田・梅村両氏とも御歳のことを申し上げるのも失礼ですが、お二人とも現在80歳。長年にわたって「賀川豊彦とその仲間たち」の大切なお一人としてご活躍の傍ら、それぞれご自身の歩みと重ねて関係資料の収集調査を積み重ねて来られた方々だったのです。梅村氏は主として「西宮一麦教会」並びに「一麦保育園」関連の諸資料を、吉田氏はご両親の生誕から逝去までの幅広く資料を集め、梅村氏はご自身の所属される教会史や保育園史に、吉田氏は「甲子園二葉幼稚園史」などに執筆して来られた方々だったのです。


 元正章牧師と私は専ら聞き役で、次々と取り出されてくる関係資料や写真類などに驚きながら、「吉田源治郎・幸夫妻の世界」に目を白黒させる事態となりました。思いもかけなかったことでありましたが、その後何度か一麦保育園での出会いを重ねるうちに、梅村氏所蔵の主として「一麦関係資料」と吉田氏所蔵の大量の「吉田源治郎・幸関係資料」が、狭い我が家に持ち運ばれる事態となったのです。これは、昨年の「武内勝資料」の「お宝」と同じ事態です。


 新たな「お宝」を喜んでお預かりはしたものの、さてこれをどうしたらよいのか判断のつかないまま、とにかく一通り資料の整理を進めていきました。


        源治郎の「説教」と『肉眼に見える星の研究』


 実は後先になりますが、4月5日の第1回の集まりの前に、以前寄贈して戴いていた西宮一麦教会の『五十年の歩み』(1998年)を取り出し、吉田源治郎牧師の「前進する教会」と題する説教を読んだのです。この説教は1967年3月、西宮一麦教会の創立20周年記念礼拝での説教を録音し、それを31年後の記念誌に文章化されたものでありました。その吉田源治郎牧師の古い説教に、何故か私の心を捉えるものがあり、何も知らなかった「吉田源治郎牧師」のことを、この機会に学んでみたいと考えるようになっていたのです。


 もう一つ私を惹きつけたのは、吉田牧師が『肉眼に見える星の研究』(警醒社書店、1922)という作品を残していて、宮沢賢治がそれを読んで作品に活かしていことを耳にし、既に古書店でその初版本を手に入れて読んだことも、大きかったのです。


             吉田源治郎の略歴


 ともあれ私の知らなかった「吉田源治郎」の略歴のようなものを、ここに短く取り出しておきたいと思います。


 吉田源治郎
 1891年(明治24)10月2日三重県伊勢宇治山田に生れる。
 1907年(明治40)宇治山田教会にてヘレフォード宣教師より受洗。
 三重県立第四中学から明治学院へ進学。在学中に内村鑑三の主宰する「柏木教友会」に所属。日曜世界社の西阪保治との交流もあり著書『児童説教』を仕上げ刊行する。(妻となる間所幸は、源治郎とは宇治山田教会の日曜学校の生徒であり、賀川ハルの学んだ共立女子神学校で同期同室であった)
 1918年(大正7)京都伏見東教会牧師となり、翌1919年には間所幸と結婚、賀川豊彦と交流が始まる。以後、賀川の講演記録の名著(『イエスの宗教とその真理』『聖書社会学の研究』『イエスの自然の黙示』『イエスの人類愛の内容』など多数)を仕上げる。
 1921年(大正10年)「イエスの友会」の命名者。
 1922年(大正11)『肉眼に見える星の研究』を出版、直ぐ米国オーボルン神学校へ留学。
 1924年(大正13)卒業。ユニオン神学校などでも学び、その後賀川と共に欧州視察旅行。同年帰国後「四貫島セツルメント」初代館長。
 1925年(大正14)シユヴァイツァー『宗教科学より見たる基督教』翻訳出版。
 1927年(昭和2)西宮で賀川・杉山ともに「農民福音学校」開校、主事として参画。
 戦前・戦後「大阪四貫島教会」「西宮一麦教会」「甲子園二葉教会」その他、多くの教会伝道所の創設と牧会を続ける。
 1968年(昭和43)社会福祉法人エス団常務理事。
 1984年(昭和59)1月8日92歳で逝去。
 著書(翻訳書や賀川講演録などを除く)『児童説教』『肉眼に見える星の研究』『肉眼天文学』『新約外典物語』『心の成長と宗教教育の研究』『勇ましき士師たち』『五つのパンと五千人』『神の河に水みちたり』ほか。


               おわりに


 以上は限られた紙面での「中間報告」です。「武内勝関係資料」は、神戸文学館での企画展「賀川豊彦と文学」で専門的な学芸員の手によって公開展示され、新たに完成した「賀川ミュージアム」でも現在その一部が公開されています。「吉田源治郎」に関しては、サイトでも紹介しているように先行研究として、岡本栄一氏(ボランタリズム研究所所長)や尾西康充氏(三重大学教授)の労作があり、それらの道案内で今も楽しみながら、たどたどしく連載を続けているところであります。