「吉田源治郎牧師から見えてくるラクーア伝道」(資料1)



第9回「ラクーア伝道」関係連絡会(2012年10月1日・神戸栄光教会)資料1


         前 進 す る 教 会


                  初代牧師  吉 田 源 治 郎


 きょうは1967年(昭和42年)3月19日……私共の教会の20周年の記念礼拝ということになります。この機にあたりまして、私は皆さまに二つの聖句を贈りたいと思います。


 その一つはイエス・キリストのお言葉でありまして、ルカ福音書13章33節、「しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない」というみ言葉であります。もうIカ所はピリピ人への手紙3章13-14節、「兄弟だちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリストーイェスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」というみ言葉であります。


 私は実はこの二つのみ言葉を皆さまに差し上げたら、それで私のきょうのメッセージのすべてを尽くしていると、こう考えている次第でございます。


 かつて賀川豊彦先生が亡くなられ、東京の松沢教会で葬式があって、その告別の言葉を頼まれましたので、私は先生のご一生につき何かとお話ししたのでしたが、その最後のまとめといたしまして、アメリカの奴隷解放者のジョン・ブラウンという人につきまして、ある人が作った詩を朗読して訣別の言葉としたのであります。


 その詩は、”His soul is marching on.” という言葉であります。「彼の魂は進み行く」というのであります。


 私共は進むことは好きでありまして、退却することはいやでございます。20年を回顧するということは、たしかに神の恵みを思うためには良いことでありますが、我々は過去のことにとらわれてはならないと思うのでありまして、さらに一段と進歩し成長するための20年の記念でなければならんと思うのであります。


 それできょうは、特に先刻読んでいただきましたローマ人への手紙8章31節から37節までのところを、きょうのみ言葉として学びたいと思うのであります。


 私は昨年、皆さまのご協力を得まして、約2ヵ月近く、アメリカのカリフォルニア州とハワイのホノルル方面に、20幾つかの教会を歴訪し、伝道をしてまいりました。


 その時、私か至る所で皆さまにお勧めしたことは、このローマ人への手紙のみ言葉でございました。「勝利」ということであります。8章37節のところです。


 パウロという人は随分いろんな苦難に出合ったし、また迫害にも出合っております。時には、飢えて凍えてしまうような目にも合っておる。難船にも出合っておる。また霧の危険にも出合って命が危うかったこともあるようであります。そういう艱難辛苦、苦悩、迫害の真っ只中において、彼は決して弱音を吐かなかったということであります。         ”


 しかし、我々の20年のこの歩みを考えます時に、我々の背後に、我々を愛しておってくださるお方がいる、ということを我々は忘れてはならない。その方のゆえに今日あることを思うのであります。私たちはこれらすべて(あらゆる困難、苦しみ、いろんなこと)において、「勝ち得て余りある」のであります。


 この「勝ち得て余りある」という言葉の意昧でありますが、勝つのにもいろんな勝ち方がありまして、辛うじて勝つという、いわゆる「辛勝」というのがございますね。ようやく勝つ、相撲取りであろうが何であろうが、もう勝ったことは勝ったのだけれど、息がほとんど絶える程こちらは弱ってしまう、というような辛勝がありましょう。それから、完勝(全く勝つ)という勝ち方もあります。


 パウロの場合は勝ち得て余りある、ただ勝つのみでなくて余りがある、余裕綽々ということであります。ただ勝つのではなくて、なおこれからも戦える力を持っておるということが、「勝ち得て余りある」ということですね。キリスト新聞社訳によりますと、「勝ちすぎる程勝っている」と書いてあります。新しく最近出された新改訳聖書によりますと、「圧倒的な勝利者となる」と書いてありますね。それがクリスチャンの歩みだと思います。


 そして、我々の教会の歩みはいと小さい、ささやかなものでありますが、その歴史というものは「勝ち得て余りある」ということでなくてはならんと思うのであります。


 きょうの週報の終わりに、私の思い出をちょっと書いておきましたが、それをどうぞごらんいただきたいと思います。


 私か西宮一麦教会の開拓伝道を始めた時には、別に私から志願して始めたというのではなくて、不思議な縁故と申しますか、導きがあって始まったことでございます。


 ちょうど1945年(昭和20年)という終戦の年、私は今おります西宮市高潮町(甲子園の近くでありますが)に住んでおりました。それから大阪の四貫島というところで、労働者伝道、同時に社会福祉事業に没頭していたのでございました。


 その時、たまたま2回にわたって大阪も自宅の方も戦火に遭いまして、一切を失ってしまった。それがもとで、私共はこの西宮一麦教会が今ございます一麦保育園へ約5年間、疎開させていただくことになったのです。


 ですから、太平洋戦争がなかったならば、そして日本が敗戦しなかったならば、おそらく私はここに来なかっただろうし、したがって西宮一麦教会も生まれなかったかも分かりません。しかしながら、一麦保育園というものはすでに始まっていましたから、あるいはそれが教会になったかもしれませんが、それは神のみの知り給うところでございます。


 1947年(昭和22年)に、この教会は日本基督教団西宮一麦教会として設立の承認を受けたのでありますが、その後1960年(昭和35年)12月18日にこの会堂が建てられたのでございます。この会堂を建てるにつきましても、みんなが一生懸命になって建てようとか、基礎からやって準備しよう、とかいうことを最初は考えなかった。


 ただN君というひとりの高校生が、「今までは礼拝をするにも保育園の一室を借りて非常に不便であったので、どうしても、ひとつ会堂を与えてほしい」と、彼が夏のアルバイトでかせいだ全収入の1万5千円を持ってきて、教会の役員に訴えたのであります。それでみんなが非常に感激いたしまして、この会堂を建てるようなきっかけが始まったというわけです。


 考えてみますと、人間のやることというのはきわめてスローでありますし、またどうなるか分がらんことでありますが、神のご計画というものは確かだということを、今更のごとく思うのであります。


 この教会が法的に承認されたのは1947年(昭和22年)でありますが、伝道開始は1945年(昭和20年)8月ですから、教会承認よりもう2年前から始まっているわけであります。


 よく調べてみますと、それ以前、すなわち1932年(昭和7年)4月1日に一麦保育園が発足しておりますし、その前の年の年末に「一麦寮」といわれておる2階建ての家が出来たのでありますが、その頃、関西学院の神学部の学生やらクリスチャンの学生たちがしばしば応援に来て、保育園の中で日曜学校を始めておったということが、やはりこの教会の生まれる一つの母胎になったという風に考えられるのでございます。


 それからまた、賀川豊彦先生が1927年(昭和2年)2月1日に第1回の「日本農民福音学校」というものを2階建ての家で始められた。やはりこれも教会の生まれる大きな一つの底力になったということを、私は忘れることが出来ないのでございます。


 その頃は3百坪(9百90平方メートル)の土地がありましたが、これも賀川先生のお書きになった『一粒の麦』という、その当時よく読まれた小説の印税でもって、約1万円余りのお金で3百坪の土地を買いました。そして、現在の保育園本館の位置に木造2階建ての建物を建てました。ということから、保育園の名前を「一麦保育園」といい、のちに出来た教会を「西宮一麦教会」と称するようになったわけでごさいます。


 この「農民福音学校」というのはどういうものかと申しますと、デンマークに範をとったものであります。


 デンマークという国は千六百何年という昔、ドイツと戦って敗戦の憂き目をみて、国中がもうほとんどペシャンコになってしまったのですね。そして南の方にあった二つの地方、すなわち非常に肥沃なホルシュタインとシュレスウィヒというところを取られてしまいました。それで、国は日本の四国よりも小さくなってしまったのですね。


 そこで、どうしたらよいか一時はもう虚脱状態にありましたが、グルントウィーという牧師が出まして、クリステンコールという小学校の校長たちと協議いたしまして、「国民高等学校」という名前で青年教育を始めた。それがいわゆるこの我々の農民福音学校と呼んでいる濫觴(らんしょう・起源の意)であります。


 そして彼らは「土を愛し、神を愛し、隣人を愛する」という三愛主義をもって、このデンマークの復興を図ったのであります。そして毎年、冬の農閑期には男子が、夏の農閑期には女子がというわけで、何百名となく幾つかの国民高等学校で勉強するようになりました。普通の学校では受けられないところの精神教育や愛国心を養い、そのようにして多くの青年たちが育成されたのであります。


 賀川先生は、これは日本にとっても大事だということで、本邦では初めてのこの農民福音学校というものを一麦寮で始められたわけです。私は最初からその教務主任として、毎年2月になりますと約1ヵ月間、それを開きました。夏は女子学生のためにも開いたのです。これが基となりまして、いたる所にこの開拓伝道が始められたわけです。ですから、ある点から申しますと、西宮一麦教会が一種の伝道の基地であったということが出来るのではないかと思います。


 私は日曜の礼拝が済みますと、奈良とか但馬などに出かけてまいりましたが、それはみな、この農民福音学校に来て勉強した農民たちの故郷を訪ねて行ったわけであります。奈良県のごときは毎週日曜日の晩に、また但馬のごときは月に何回か出かけておったのであります。そして、草深い田舎からここに来て、聖書を学び、あるいは新しい農業のことを学んだ人たちが中心になって、小さい聖書研究会が始められるようになりました。


 奈良県では馬見労祷教会、榛原では榛原伝道所、但馬におきましては三方伝道所、但馬伝道所という二つの伝道所が生まれ、それぞれ若い牧師先生においで願って伝道を続けているのであります。私は時々出かけるだけでございますが、そういう伝道基地になっているということを、皆さんご記憶願いたいと思います。


 人間に力があるとか、あるいは人間が成長するということは、結局、自分をいくつかに分けていくような分身が出来るということでありますから、一つだけの教会があって、それ以外ひとつも子供を生まない、子孫を殖やさないというような教会は、命がどの程度あるのか怪しい教会であると思うのです。


 いつも祈りが背後にありまして、こうした開拓伝道が今も続けられているということは大きな感謝でございます。また但馬方面は、いわゆるラクーア伝道のおかげで教会堂も建ちましたし、ずっと続けて伝道がなされているわけです。


 但馬日高におった内田伊三雄という牧師さんは同志社を出た方ですが、その後スイスに留学し、この4月に帰って来られました。内田兄はスイス人のお嬢さんと結婚いたしましたが、早速お目にかかりたい、とのお手紙が昨日来まして大変喜んでいるわけであります。この人はあまりドイツ語が上手でなかったのですね。ところが向こうに行って、今ではドイツ語でもって説教はするし、ボーイスカウトの指導者になりまして、車をどこからか寄贈されて、スイスだけでなく、ドイツ、イタリアを駆け回って児童の指導に当たっているそうです。今度は日本の「愛農会」という団体(三重県名張の近くにあり、会員は全国で約3千人)から招かれ、会員の中に聖書を勉強する人々が相当おりますので、その人々を訪問して伝道するということと、もう一つは4年ほど前に、キリスト精神をもって農業に従事する青年が必要だということで生まれた「愛農高等学校」という学校(生徒は約2百名)で聖書を教えるほか、奥様のミセス内田はドイツ語を教えることになっております。3年に1度だけ、この学校の卒業生で語学の出来る人をスイスに3人ほど送り、向こうの人と交換して、いろいろ農業方面のみならず精神的な方面にも貢献しようということを計画している。


 こういったことも、考えてみれば西宮一麦教会が背後にあって但馬日高に伝道され、内田兄のような道が開かれたことから始まってきたように私は思うのでありまして、感謝にたえないのでございます。


 西宮一麦教会はそんなわけで、どうか子供を生む教会になってほしいと思うのであります。


 きょうは特別な記念礼拝ですが、本当は20年の記念に3ヵ所、4ヵ所、開拓伝道が出来るような教会にならなければならないと思います。


 終戦の年、1945(昭和20年)8月15日に、私共は喜ばしいような悲しいような敗戦のあのラジオを聞いたのであります。その頃、私共の家はもう無くなりまして、私は煙のために3日間、目が見えなくなりました。


 パウロという人は目が見えなくなって初めて、目が見えるようになったそうでありますので、私も目が見えなくなるということは、さらに主イエス。キリストのお姿が見えるようになるためだと思っておりましたが、さてさて、煙でもって目が見えなくなると、痛くて痛くて3日聞えらい目に遭って、もう目が早く見えるようにと祈ったわけです。まあそういうことがあって、私は命からがら、ここにまいりました。


 ちょうどこちらに来ましたら、生駒憲彦兄という韓国生まれの方(のちに賀川先生によって洗礼を受けたり、結婚式を向こうの家でいたしました)がそこに一人で住んでおりまして、2人で相談いたしました。「日曜日が来たので何とかしようではないか、2人で祈祷会をやろう」というわけで、終戦後、初の日曜日(8月19日から2人で朝8時か9時頃からしたと思っていますが、ひそかに祈りから始めました。人が来るかどうか分からないが、「祈ろう」と。やはり祈ったら山が動くといいますが、そういうところから西宮一麦教会が始まったことを皆さんに覚えていただきたいと思うのであります。


 そんな風にして、私共が家内や子供と一緒にここに同居しておりまして、一麦寮の2階の部屋がまだ畳敷だったので、そこでよく集会をしておりました。日曜礼拝はいつも2階でしておりまして、その頃、賀川先生も神戸にいらっしやったものですから、よく応援に来てくださいました。あの狭い2階に、時には70人を超えることもございました。その中から洗礼を受ける人が出まして、ようやく教会らしいものが出来てきたのでございます。


 その頃の統計によりますと、会員数わずか10名でありましたが、1年経ちますと26名に増えました。その1年間で6名の受洗者があり、平均の礼拝出席者が約18名くらい、祈祷会は12名、日曜学校の教師8名、生徒が63名、婦入部の会員が13名あったという統計がそこに出ております。それが10年後になりますと、会員が60名になり、礼拝が28名くらいになり、祈祷会9名、日曜学校106名と非常に盛んになったわけです。


 そして会堂が与えられ、現在に至ったわけであります。1961年(昭和36年)以後、今日までの歩みにつきましては、皆さまがよくご存じのことだと思いますし、きょうは特に米子から奥様と共にいらしてくださった長谷川英雄兄がいろいろと証しをしてくださると思いますので、私も本当に楽しみにしているわけでございます。


 さて、回顧はこのくらいにしておきまして、申し上げたいことは、神が私共を指導し給うのに二つの方法があるということです。


 一つは、いわゆる「摂理」ということですね。我々の環境とか歴史とか、そういったことがそう成らざるを得ないようになって来るということです。私がここへ疎開して来たのも、いわば神の摂理だと思います。これを、神を知らない人から申しますと、運命とか宿命というかもしれません。神を知る我々からいうと、神の深いお情け、み心からこうなったといった方がいいのではないかと思います。


 英語ではこれを “providence” といいますね。プロヴィデンスのプロとは「前以て」ということで、ヴィデンスとは「見ること」の意です。前以て見る、用意されておるということですね。日本語では通常、「摂理」と訳しています。ちょっとわかりにくい言葉ですが、神のみ心によって事情がそう変わって来るということです。


 ですから、ここにいらっしやる教会の兄弟姉妹がたも、おそらくそういう風にお考えでありましょうが、どうして自分がこの西宮一麦教会に来るようになったのだろうか、自分で求めてお越しになった方もあるでしょうが、そうならざるを得ないようになったのは、やはり自分以外の意志、自分でない意志、人間以上の意志が我々を導いてくださったのではないだろうか、こういう風にお考えになられる方もあろうかと思うのであります。いわば摂理によって、きょうという日に皆さんはここにおいでになったのではないかと思うのであります。それが摂理であります。


 或る人が或る方と結婚なさった、或る人が或る会社に入りなさる――まあ考えてみれば、摂理ということは随分範囲の広いことであろうと思うのであります。
 神が我々を指導なされるのに、もう一つの道があります。それは聖霊をもって我らを導き給うというということですね。


 神は私たち教会を摂理と聖霊をもって今日まで導いて来られたことを、私は確信するのでございます。そして先刻申しましたように、私が自分で選んで、自分で計画してここを始めたのではないということです。考えてみると、教会が始まっておった。集会が日曜日ごとに行われるようになってきたのでありまして、あとから考えてみますと、ああ本当にこれはすべて神の恩寵である、私は誰に招かれたのでもなく、ここに来ておったことが基になって西宮一麦教会が始まったことを思いまして感謝にたえません。


 この20年の間に何名かの兄弟が神学校に献身されたことを私は感謝せずにはいられない。 きょうおいでになっておられる長谷川英雄兄のご令息の長谷川進一郎兄、それから、私共の教会で洗礼を受けた人ではなかったが、築山泰三兄(この方は関西学院の神学部を出ておられます)、今度また、森彬兄が東京神学大学に献身なさった。これも実際、私か勧めたわけでもないし、私か特別にこういうことをその人に説いたわけではないのです。神のみ霊が彼を動かしてその道を開いてくださったのではないかと思うのであります。


 我々の一生というものは、個人にしても団体生活にしても、やはり神の摂理、神の聖霊、この二つのお導きがある時に、はじめてそこに新しい道があり、新しい歴史が始まってくるのではないかと思うのであります。私はそんな風に神のみ霊の導き、神の摂理を確信しておりますから、私はあまり慌てないわけでございます。


 話は横に飛びますが、この場所において、教会より15年前にすでに一麦保育園が開かれたのでありまして、ここに長らくおられるのは埴生操姉でありますが、その前にも松田伊勢子(旧姓有松)という方がおられました。この方はのちに高槻市の市会議員になられたクリスチャンで、その次に埴生姉がいらっしゃったわけです。まあ、いろんな方の協力によって子供をキリストに導くということを主眼として、キリストの児童愛護の精神に基づき、この場所において保育園が開かれていたということは非常に大きな恵みだと思うのでございます。


 当初、私は賀川先生に提案いたしまして、是非ともひとつ保育園をやろうということで始めたわけでございます。1932年(昭和7年)4月のことでありました。そして今日まで多くの子供たちが保育園で保育を受け、そのお母さん方、主婦の方々が教会に導かれて信仰に入り、なかには今も教会の役員をしていてくださる方もあるわけであります。これはやはり、賀川先生の児童愛護の精神というものがそれに到らしめたと考えておる次第でございます。


 私共は何もなしで始めたわけでございます。たとえば、この講壇もなかった。この椅子も何もなかった。播磨さんのご令息の結婚式の時に、「椅子がないですね」と申しましたら、「それでは作りましょう」といわれて、この椅子を三つ寄贈してもらったわけでございます。椅子にはギリシャ語の言葉を入れましょうということで、「アルファ」と「オメガ」の文字を入れました。アルファは「はじめ」、オメガは「最後」ということですね。イエス・キリストは「はじめであり、終わりである」ということ。それからキリストの略字として、ギリシャ語のX(クリストゥスのかしら文字)を入れたわけです。


 会堂もなければオルガンひとつない、椅子もなければ何もない。でも神はすべてをなし給う。何もないところからすべてが始まってくる――それが私共の信仰であります。そして祈りのあるところには必ず道が開かれるということを確信しているのでございます。


 「神、光あれと言い給いければ光ありき」です。混沌たる宇宙、混沌たる世界に向かって、「光あれ」と神がみ言葉をおかけになれば、光が始まってくるのであります。


 我々の教会もゼロから始まったことをお覚えくださり、もういっぺん新しい勇気をもって、21年目の歩みをきょうから始めたいと思うのであります。


〈祈り〉
 恵み深き主よ、勝ち得て余りある生活を私たちに体験させてください。勝ち過ぎるほど勝っておる圧倒的な勝利を、どんな場合でも得ることが出来ますように我々を励ましてください。
 20年という長い年月において、多くの兄弟姉妹方がここで信仰を与えられ、また信仰に歩んだことでございます。また、ここで結婚式を営んだことでございます。
 我らの教会を始めるに当たって、非常に骨を折ってくださった賀川先生はすでに天に召されていらっしゃいます。
 これらの方々の、見えざる、また見える多くの援助と祈りをひしひしと身に感じる者でございます。
 「何も有たぬ者の如くなれども凡ての物を有てり」(第一コリント6・10、文語訳)――この信仰をもって、きょうから更に新しき歩みを始められますよう、主の祝福が豊かに注がれますように。
 この願いを我らの主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。
                              アーメン

 (西宮一麦教会創立20周年記念礼拝説教 1967年3月19日 西宮一麦教会にて)

   『日本基督教団 西宮一麦教会 五十年のあゆみ』(1998年3月)より)