「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(22)



KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(22)


http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


第3回 保育に於ける自然研究(10)


『子供の教養』(昭和14年11月号)


          保育に於ける自然研究


                    吉 田 源 治 郎


(前回に続く)


  
        四、自然教育のいくつかの事例


 (この項前回につづく)


 (b)一保育園の場合


 これは開西のある郊外の保育園である。ここでは一人の保母の熱心の結果、子供達が雑草の研究に素晴らしい興味を示してゐる。H保母の言葉を借りて云へば、人の無視してゐる雑草こそ正に神の恩物である。


 ―−食用として味覚に味はせ、せり、たんぼぽ、すべりひゆのシタシ、しゅんぎく、等染色用として実用に供し、その他玩具用として運動覚に訴へ(ちから草、かやつりぐさ、さゝぶね、くさぶえ等)、観賞用として視覚に訴へ、花、葉の形、茎、根、等を親察させる。


 殊に穀斗科植物の(例ノビエなどの)あるかなきかの花びらを顕微鏡で幼児に観察させてゐるが、其の時の幼児の驚嘆の様子を私は傍で見て、こゝに驚くべき一つの観察の世界が秘められてゐることを、しみじみと感じたことである。


 大阪から連れて行った或る幼児は顕微鏡をのぞいて、「先生、ここに真珠が光って居る!」と叫んだ事がある。花の香りを臭覚によってかがせる(或る種の雑草は芳香を放ってゐる)。ある物は薬用として(水むしの為には、ぎしぎし、等)用ひさせる。


 この保育園では幼児は、保育修了式の時に、凡そ三十種位の雑草を押し花にし、家庭に一年間の製作品として持って帰るのである。


 或る時に一人の幼児が木の葉を持って来て「これは先生あの草と同じでせう」と言って来た。それでH保母が調べてみると、それは豆科に属する木であった。正に子供のいふことに間違ひはなかった。


 こうした事にH保母は一層励みを受けて、子供には一種独特の観察力があるといふ事を今更の如く知ったといふのである。


 勿論こうした保育に於ける自然研究は、保母其の人に熱心な研究心がなければ、効果はない。H氏の如きは、野道を歩いて行くとまるで路傍の雑草が聲をあげて呼び止めるやうに感じるとのことである。


 今ではこの保育園を中心とした一区域に於て、どの畦道には何時頃、如何なる雑草が聚落をつくり、川岸の墓場には何種類の雑草が生ひ立ってゐるかを、熟知してゐるとの事である。


 勿論、葉や花を見た時に、その属する科を言ひあてることは極めて容易である。このH氏が持ってゐる顕微鏡も相当な価格のもので倍率も大きいものであるが、その購入にあたっては自分で苦心して求めたとの事で、其の熱心さには私も敬意を表してゐる次第である。


 H氏は、此冬にかけて、保育園の近くの鑓守の森の一切の樹木を研究するのだと力んでゐられる。
 

 最近のこの保母H氏の便りの一節にも、
 「この頃は、とても禾本科の花に對して非常に興味をもち、一つ一つの花を忘れることが出来ません。人のかへりみない花にこそ、神の姿があります。来年の卒業記念品のことを考へて、一歩進んだ標本を幼児らに輿へてやりたいと苦心して居ります。
 今年は、自分と植物は、最も親しい友のやうに考へられ、研究も興味のもてる年でございました」
とあった。


     (つづく)



  付録 先日神戸のイエス団本部で吉田摂氏より新たに写真や資料ほか貴重なものを拝見しました。その中に次の「一麦(いちばく)」第1号(1961年1月)がありました。今月17日には「一麦保育園創立80周年記念」の集いが開催されますので、この第1号の一部を抜粋してテキスト化してみました。


写真が数枚入っていますが、ここでは、文章のみになります。悪しからず。



    「一(いちばく)麦」(ヨハネ12・24 1961年1月)第一号



          風雪十五年『一ばく』の歩み


           ―そもそもから献堂の日まで―


 物語はまず農民福音学校から始まる。思えば三十五年の昔、一九二六年十月七日当時三十八歳であった賀川豊彦先生と御家族が、当時の武庫郡瓦木村高木東口に東京市外松沢村から転住して来られたことが、われわれの教会の創世記の第一ページに書き記されなくてはならない。瓦木村といえば現在の阪神国道「瓦木」電停周辺から以北、武庫川に至る西宮北口をふくむ一円にひろがる田園の総称であった。


 賀川先生は、一九二七年二月十一日(旧紀元節当日)日本農村伝道団(同年一月十九日結成)を背景に、二軒一棟の借家の自宅を開放、デンマークのフオークス・ホツホ・シユーレ(国民高等学校私塾)風の第一回日本農民福音学校を開校された(その後同校は毎年同じ季節に1ヵ月間開設されて昭和十七年太平洋戦争で閉鎖されるまで、十五年間つづけられた)。


 これは一麦寮の建つ迄は定員十二名のささやかな塾であったが、その中から升崎外彦、坂井良次、藤崎盛一、久宗壮、船本宇太郎、大川拓、永井攻一、小林憲、横山春一氏ほか百数十名の有力信徒指導者を我国全土の農村社会へ送り出した。


 昭和六年末、賀川先生の名作小説「一粒の麦」の印税で現在、一麦保育園及び二階建の旧称一麦寮(当時農民福音学校寮)とが建てられている。約九九〇平方米(三百坪)の土地が取得され、定員を二十名に増員、一層、充実した農村青年のための教育が実施された。職員は校主賀川豊彦、校長杉山元治郎、教務主任吉田源治郎、主事金田弘義という陣容であった。


 次いで一麦保育園が一九三二年(昭和七年)四月一日、芝八重氏(女医)が、当時の三百円を寄付、ヤエシバ舘という名称のバラック建(二〇坪位)のホールが、一麦寮の東側に新築された。


 そこで界隈の農民子女を対象に一麦保育園が開設された。当時の職員は賀川豊彦園長、吉田源洽郎主事、松田伊勢子主任という顔ぶれ、歯科医宮井速氏夫人、きみ氏も開設当初の保母の一人として奉仕された。


 開設早々の園児数はようやく二十数名位から最大四十名という程度、しかし当初附近からは子女をここに寄託する父兄はあまりなかった様子で、西宮北口附近の商家からぼつぼつと入園の申込みが時折ある程度であった。


 昭和八年四月、埴生操(現在の主任保母)が赴任。昭和九年四月から二十二年七月までは当時校内に居住の武内勝が保育園の責任をとったが、同年十月から吉田源治郎牧師が再び主事に就任、賀川先生召夫の時に至った。(昭和十八年に保育園は社会事業法による託児所となった。一九四八年(昭和二十三年)七月一日、児童福祉施設として公認され、現在に至る。)


      現在の職員(一九六一年一月現在) 
      施設長(理事)吉田源治郎牧師
      主任保母   埴生 操  
      保  母   大河内朝子   椿本美代 
             倉光 容子   岡田 静枝
      嘱  託   前田 昭治


 組織と正式な名称は「社会福祉法人エス団(賀川ハル理事長)児童福祉施設保育所・一麦保育園」ということになっている。定員は八〇名であるが、入園希望者が多くてその全員をことごとく収容すれば一〇〇名を越える現状です。


 一麦保育園ではキリストの教育精神に則り、自然愛を身につけ科学する心をもつ人物の育成を主眼としている。そのために自然観察保育を実施、最近は卒業生の間からとくに自然科学に関心をもつ児童が数名現われて来た。最近、読売新聞の綴り方に低学年日本一に当選(昨年十一月)した一人の小学生(高木小学校二年在学中)の「石はかせ」はそうした何人かの中の一人である。


 保育園は園内を「自然観察の場」として用いるよう配慮すると共に、戸外の小川、森、野原、集落はそのまま一麦保育園の教室であると考えている。設立者賀川先生は、建物はいらない「ここから六甲山までが一麦保育園の園庭だ」と、しばしばいわれていた。


 園児の少なかった頃は卒業製作として幼児たちは毎年、採集した植物を錯葉、これでアルバムをつくった。そんなわけで小学校へ進学する頃にはどの幼児も大抵、五十種位の雑草の名称とその効用を覚えたもので、顕微鏡で園児たちが、花粉や葉脈などを観察している風景は当保育園の保育生活の一こまとなっている。
また動物や昆虫飼育、そして雑草の栽培にもこどもたちは異常な興味を示している。それは神の衣である「自然」から離れることは人間が「神」から離れることであるとするキリストを始めフレーベルの教育精神、そしてアンリ・ファーブルの伝統を継承、当保育園が鋭意「自然保育」に力を傾倒してぃるためであろうか。


     空の鳥を見るがよい、
     野の花がどうして育っているか
     考えてみるがよい(キリストの言葉)
     道ばたの小石に聞くよ。
     千年の地球の歴史、神の神秘を。
                     賀川豊彦



           教会の母胎として


 一麦保育園ができて間もなくここを利用、関西学院の神学生や学生たちが、断続して日曜学校を開設していたこと、そして保育園そのものが、幼児・父兄母姉たちにスロー・バット・ステディ(ユックリとしかしながらシッカリと)に礼拝、聖書、賛美歌、クリスマス、その他の行事等によってキリスト信仰を培っていたことを忘れてはならないであろう。現に西宮一麦教会の支柱ともなっている人々は、保育園出身者の間や、その母たちの間から幾人も現われている。


 直接的には、終戦の年、一九四五年八月下旬、当時、一麦保育園内に疎開(約五年間)中であった吉田源治郎牧師が、終戦直後の第二聖日から、当時同居していた生駒憲彦兄(現神戸イエス団教会役員)と二人で、聖日毎に祈祷会をひらいたことから、教会の集会が発生した。


 一九四七年(昭和二十二年)には日曜礼拝に集る人々が時々四〇人、特別集会には七〇名にもなり、遂に日本基督教団西宮一麦教会が三月十七日設立された。当時は一麦寮の畳敷の二階で礼拝を行なった。設立当初の会員は約一〇名、一九四八年(設立後約一年後)の会員総数は二六名、一年間受洗者六名、聖日礼拝平均一八名、祈祷会一二名、日曜学校教師数八名、生徒数平均六三名、婦人部一二名、経常歳入総額五万三千円であった。
 


  一麦保育園だより


           賀川豊彦先生と幼児教育


           ―おさなごをわたしに―


  賀川先生は好んで、イエスが幼児たちを招いている絵を描いた。嬉々としてイエスのひざもとに集ってくる幼児たち――それは皆、元気発らつとしたスラム街の子供たちと覚しい姿である。賀川先生はスラムのこどもたちに、とっても慕われた。


 一麦寮の建てられた当初から太平洋戦争の始まるころまで、大阪の労働者街(四貫島セツルメント周辺)から、神戸の新川(神戸イエス団周辺)から、毎夏幼児たちや、小学生たちが何週間かを当時の瓦木村に設けられた一麦保育園及び一麦寮に転住し、せいぜいハイか、蚊か、アリ位しか知らない所の子供たちが、森の中で、小川の岸辺で、武庫川原で、動植物、昆虫、天象、地象、物象にじかに身体で接近し、親しく自然を皮膚に感じとる朝夕を送った。


 こうした自然生活を「魂の彫刻」(賀川先生の宗教教育の名著)=宗教教育=の重要カリキュラムとするのが、賀川教育の理念であり、その宗教でもあった。


 “自然を愛し”の一句を児童憲章の中へ挿入させたのは賀川先生の主張と努力とによったと聞く。先生は”自然保育“を実施しようとして、戦前思い切った投資をして武蔵野の野鳥を松沢幼稚園(東京都)で飼養し、これを幼児に観察させようとしたこと、鉱物の標本や野草観察に重点をおき保母たちに奨励したこと、時には幼稚園の天井に遊星運行の模型を展示、または鉱物の結晶模型を多数作製、幼児たちの観察に供したことなど、先生は(フレーベルの恩物に示唆されて)いかに子供たちにとって、自然生活に親近させることが宗教教育上不可欠な要素であるかを、こうじた教育プロゼクト(計画)によって、具体的に示された。


 私たちは賀川先生から、旧瓦木村に所在するいくつかの鎮守の森や沼などが、古い時代からの原始林の形態や植生を存続していること、自然暦、自然史及び自然研究のラボラトリー(実験室)であることをしばしば指摘されたものである。