「仲間 武内勝と吉田源治郎」(第6回)(『Think Kagawa ともに生きる』(2010年)



賀川豊彦献身100年記念事業の軌跡:Think Kagawaともに生きる』(2010/11)





          仲間 武内勝と吉田源治郎


  (前回に続く)


      源治郎の「説教」と『肉眼に見える星の研究』


 実は後先になりますが、4月5日の第1回の集まりの前に、以前寄贈して戴いていた西宮一麦教会の『五十年の歩み』(1998年)を取り出し、吉田源治郎牧師の「前進する教会」と題する説教を読んだのです。この説教は1967年3月、西宮一麦教会の創立20周年記念礼拝での説教を録音し、それを31年後の記念誌に文章化されたものでありました。その吉田源治郎牧師の古い説教に、何故か私の心を捉えるものがあり、何も知らなかった「吉田源治郎牧師」のことを、この機会に学んでみたいと考えるようになっていたのです。


 もう一つ私を惹きつけたのは、吉田牧師が『肉眼に見える星の研究』(警醒社書店、1922)という作品を残していて、宮沢賢治がそれを読んで作品に活かしていことを耳にし、既に古書店でその初版本を手に入れて読んだことも、大きかったのです。


            吉田源治郎の略歴


 ともあれ私の知らなかった「吉田源治郎」の略歴のようなものを、ここに短く取り出しておきたいと思います。


 吉田源治郎
 1891年(明治24)10月2日三重県伊勢宇治山田に生れる。
 1907年(明治40)宇治山田教会にてヘレフォード宣教師より受洗。
 三重県立第四中学から明治学院へ進学。在学中に内村鑑三の主宰する「柏木教友会」に所属。日曜世界社の西阪保治との交流もあり著書『児童説教』を仕上げ刊行する。(妻となる間所幸は、源治郎とは宇治山田教会の日曜学校の生徒であり、賀川ハルの学んだ共立女子神学校で同期同室であった)
 1918年(大正7)京都伏見東教会牧師となり、翌1919年には間所幸と結婚、賀川豊彦と交流が始まる。以後、賀川の講演記録の名著(『イエスの宗教とその真理』『聖書社会学の研究』『イエスの自然の黙示』『イエスの人類愛の内容』など多数)を仕上げる。
 1921年(大正10年)「イエスの友会」の命名者。
 1922年(大正11)『肉眼に見える星の研究』を出版、直ぐ米国オーボルン神学校へ留学。
 1924年(大正13)卒業。ユニオン神学校などでも学び、その後賀川と共に欧州視察旅行。同年帰国後「四貫島セツルメント」初代館長。
 1925年(大正14)シユヴァイツァー『宗教科学より見たる基督教』翻訳出版。
 1927年(昭和2)西宮で賀川・杉山ともに「農民福音学校」開校、主事として参画。
 戦前・戦後「大阪四貫島教会」「西宮一麦教会」「甲子園二葉教会」その他、多くの教会伝道所の創設と牧会を続ける。
 1968年(昭和43)社会福祉法人エス団常務理事。
 1984年(昭和59)1月8日92歳で逝去。
 著書(翻訳書や賀川講演録などを除く)『児童説教』『肉眼に見える星の研究』『肉眼天文学』『新約外典物語』『心の成長と宗教教育の研究』『勇ましき士師たち』『五つのパンと五千人』『神の河に水みちたり』ほか。


               おわりに


 以上は限られた紙面での「中間報告」です。「武内勝関係資料」は、神戸文学館での企画展「賀川豊彦と文学」で専門的な学芸員の手によって公開展示され、新たに完成した「賀川ミュージアム」でも現在その一部が公開されています。「吉田源治郎」に関しては、サイトでも紹介しているように先行研究として、岡本栄一氏(ボランタリズム研究所所長)や尾西康充氏(三重大学教授)の労作があり、それらの道案内で今も楽しみながら、たどたどしく連載を続けているところであります。