「新しい人権の確立を求めて」(1)(「火の柱」1988年9月)


「新しい人権の確立を求めて」


    1988年8月3日−全体協議・発題−


             


 私はこの地元神戸におりますが、今回お客さんのようなことで参加をさせて頂きました。大変恐縮に思いながら、昨日もそして今日も、こうして最後まで参加させて頂いた訳です。


 「イエスの友」の集まりには、もう21年位も前ですが、神戸イエス団教会で仕事をしておりました時に、イエスの友の聖修会がありました、皆さんご存知の武内勝さんのご長男・武内祐一さんと一緒に軽井沢に出掛けたことがあります。


 私にとっては最初の最後の軽井沢体験でありました、その時の講師の型のお話や中身は全く記憶にありませんが、武内さんと一緒にプールで遊んだり、近くを散策して自然の美しさを満喫し、宿泊した旅館に内村鑑三の手記が飾られていて、そちらに心ひかれたことなどあって、とてもいい気持ちで帰って来たことを思いおこします。


 ところで今回は、賀川生誕百年という大事な聖集会のプログラムの中に、このような時間をとって頂いて、お話をするように要請を受けました。


 こういう問題――特に部落問題がらみで――キリスト教の関係者の前で公に話しをさせて頂くことはこれまでございませんものでしたから、大変感激をしております。本日これからお話をいたしますことは、私が今、こう思うということですので、どうぞお聞き頂く場合も、批判的にご自分のお考えとかかわらせながたお聞きいただければ、ありがたく存じます。


 本日お集まりのたくさんの皆さんのなかには、私とほぼ同世代の方々もおられますが、賀川先生と共にあの疾風怒濤の激動の時代を生きてこられた方々が数多くいらっしゃいます。


 しかし私の場合は、直接教えを受けたという世代ではございませんで、いわばポスト賀川の世代に属しています。しかしたまたま幸いにも、鳥取の小さな田舎の教会で、賀川先生に深い影響を受けておられた、今はお亡くなりになってしまいましたが、鎌谷幸一という母教会の牧師先生と奥様の清子先生のところで、教会生活を初めておりました。高校生の頃のことです。


 その鎌谷牧師夫妻の毎日の暮らし振りを身近に見ながら高校生活をしておりましたが、それまで別の進路を希望していながら、不思議な導きで私も鎌谷先生のような牧師になりたい、小さな農村の教会で牧師をしたいという新しい志し・夢をもつようになって、鎌谷先生も学ばれた同志社大学の神学部で、新しい歩みをはじめた訳です。


 その高校時代ですが、牧師室の書棚の中から、横山春一先生がお書きになった賀川先生の書物――『隣人愛の闘士:賀川豊彦先生』という――沢山の写真のはいった賀川先生のお働きをたいへんわかり易くお書きになったものを読んで、「賀川豊彦」という人と生涯にびっくりいたしました。


 私の学生時代は1958年から6年間、1964年までですが、1960年4月に賀川先生はお亡くなりになりました。あの60年安保の高揚期のまっただ中でした。


 ご存知のように、賀川豊彦没後に開始された「賀川豊彦全集」の刊行企画がすたーとして以後、今も問題になっております、賀川先生の著作を巡っての問題というのがありました。私は学生でしたが、そういうことについてずっと少なからぬ関心をもちつづけてまいりました。


 ところで私は、不思議なご縁ですが、賀川豊彦のホームグラウンドともいうべき神戸イエス団教会から招聘をうけて、ほんの短い期間、二年間ばかりですが、村山盛嗣牧師のもとで、所謂伝道師の時を過ごすことになりました。


 すでに幼い子供がふたり授かっておりましたが、完成してまもない賀川記念館の中に住居を与えていただいて、教会の仕事と共に、地域の人たちと活動を共にする賀川記念館の働きに参画させてもらって、大変楽しい修行の時代を過ごしました。ここでの二年間は、私たちが牧師として生きる一番大切なものを、たっぷりと学ぶ、本当に恵まれた日々でもありました。


 そこで夫婦して牧師試験を受験して、教区総会において按手礼を受け、1968年4月からの新しい歩みを始めたというわけです。


 私にとりましては、より身近なこととして、賀川先生の歩んで来られた事、お書きになっているものに、日に日に興味をもつようになりました。


 イエス団教会の信徒の方々からもたくさんのお話しを伺いましたけれど、それ以後のこの二〇年間、賀川先生というのは興味というよりも、とても近しい先達のような思いを持つことが多くなってまいりました。


  (続く)