「新しい人権の確立を求めて」(2)(「火の柱」1988年9月・10月)



「新しい人権の確立を求めて」(2)


1988年8月3日−全体協議・発題−





(前回に続く)             

 
 昨日も賀川純基先生が仰言っていましたが、賀川豊彦が新川での生活をはじめて10年をすぎた経験の後、書き残した文章を取り上げて、賀川はとにかく楽しく喜んで、地域の人達と一緒に生きていくことが大切なんだと書き残していることを指摘しておられましたが、私たちの場合も、生きる時代も状況も全く違いますが、とにかく楽しく歩むこと、悲壮感というか、変な使命感というか、そういうのではなく、慎んで喜んで生きていくという、そういう生き方のトーンですね、そういうものか賀川先生の中には、ずっとあったように思いました。


 そんなことで私にとっては、賀川豊彦というのは、とても身近な方になってまいりました。また先生から影響を受けて、色々活躍をなさっている数多くの方々を介して、或いはそうした関係者の書物を介して、もちろん自らの日々のささやかな経験をとおして、学んでまいりました。


 ただ非常に残念に思われますことは、日本キリスト教団の一人のメンバーといたしまして、特に私自身が日々直接関わることになった部落問題との関わりで、キリスト教界においてずい分と乱暴な議論がおこってきたことです。


 賀川豊彦全集につきましては、ここで改めて申し上げるまでもありませんが、日本キリスト教団の中で、特に「賀川豊彦問題と教団の課題」のような問題の取り上げ方でクローズアップされてまいりました。


 以前この問題と関連して、日本キリスト教団が出した「第一次討議資料」というのがございます。私はこの「第一次討議資料」を見ましてどうにも黙っておれませんで、それで、今度の本の中にもそのまま全文を収めましたが、教団議長の後宮先生に七項目ほどのこの問題に関する「要望・意見」のような文書を提出いたしました。


 しかしその時から、少しずつこの問題についての思いを表現されるようになりました。これまで部落問題というのはひとつのタブーでありましたが、やはりこうしたタブーを含むような事柄に関しては、多少不十分であっても、またそれが間違ったことでも自由に表現していくことが、大切なんですね。


 教育関係者の方々もおられると思いますが、教育っていうのはそういうものですね。例えば授業の中でも、児童生徒がそれぞれの考えをどんどん出していく。そこで生徒の間で、また教師とのやりとりのなかで、色々自分の見方や感じ方などを、自ら分かっていく。そういう作業が一番大切なんですね。


 問違いということを恐れずに卒直に表現をし合うということが大切なのですが、そういうことが出来ないような空気が、特に私たちの日本キリスト教団の中では強くありました。そんなことで要望と意見を掲出いたしましたが、公けには何のリスポンスもありません。そして今度、「第二次討議資料」というのが出ました。私どもへの回答なのでしょうか。私にはこの問題が正しい方向で解決されているようには思えないのです。


 私がこの度、この小さな書物――『賀川豊彦と現代』――を書きましたのは私なりに、これまで学んでまいりましたことを、少しでもツホを押さえて、そして率直に視点を明確にして、一歩でも新たな対話へと前進していくことが出来ればと願ってのことでありました。


 一度この草稿は書き下ろしてから、お忙しい中を原稿の段階で色々な方に目をとおしていただきました。賀川豊彦全集問題では特に苦労をされたキリスト新聞社や松沢資料館の対応などに疑問や批判を書き込んでいますが、私自身の個人的な見方に関しても一定の理解を頂いて、特に賀川純基氏などには、積極的なご協力をいただきました。


  (続く)