「神われらと共に在すー阪神大震災での経験」1995年『思想のひろば』


上のものは、絵本『いのちが震えた』の仕上げの途上での岩田健三郎さんから頂いたお便り。



「神われらと共に在す」―阪神地震での経験


  滝沢克己協会機関誌『思想のひろば』


 水爆をもってしても「神人の原関係」は決して崩れることはない、といったようなことを、滝沢先生は幾度も語っておられた。この揺らぐことのない「原関係」があるからこそ、だれでも、そこから、そこにむかって生きることができ、死ぬことができるのだ、と。


 震災のあと、敬和学園大学のある新潟の延原先生からも、新しい共著『宗教多元主義の探究』に添えて、「地は震え 都崩るれど 基あり」という先生の「うた」を「謹呈」いただいた。


 まったく思いも掛けないこの度の「出来事」に遭遇し、この「神われらと共に在す」(インマヌエル!)ということの意味合いを、あらためて学ばせていただくことになった。


 兵庫県南部、阪神・淡路地域の人々の多くは一様にひとの(ものの)「いのち」「生と死」の経験を強いられた。大事なひとの生命が失われ、家が倒壊し、まちは廃墟と化してしまった。まさに「生き地獄」を見せつけられた。


 一瞬にしてなにも言えずに「圧死」され、また瓦喋の中でうめき叫びながら、焼け死んで逝かれた。実に、無念極まりない壮絶な最期である。


 この無念さを鎮め、慰めることのできるのは、生死を超えて、いつなんときも、永遠に離れずに共に在す「大きないのち」――「神人の原関係」[インマヌエル!]―−である。共に悲しみ、支える御方がおられる。


 震災の中でひとはひそと涙した。男たちが、ひと知れぬようにタオルを取り出し、涙ふく姿を覗き見た。

 「悲しいときは存分に悲しむが良い」というコトバが、私たちを暖かく包んだ。「幸福なるかな、悲しむ者。その人は。慰められん。」とは、まことにそのとおりである。


 幸運にも、生き延びさせていただいた私たちにも、「大きないのち」に入った方々と同じ様に[地の基]が備えられ、「いま・ここ」から離れず共に居てくださる! ひと(もの)が居るところ、生きるところ、死ぬところ、すべてのときとところで、有難くも「インマヌエル!」なのだ。不自由な避難生活の場所も、間違いなくそうなのだ。


 良寛のあの有名な見舞状−−「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。」という――も、極々身近な言葉として響き渡る。


 どうしても受け入れ難い「現実」をごまかすことなく受け入れることのできる秘密は、この「インマヌエル!」の確かさにある。


 ここから、家庭もまちも、仕事も、すべて静かに新しく動き始める。


                     (関西支部・鳥飼慶陽)