『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(47)第4章「Weekly・友へー番町出合いの家から」第5節「Aさんへ」

このWeeklyを出し始めたころは、岡林信康さんの歌の世界とどこか響きあうものを覚えていたときでした。当時、『フォーク・リポート:うたうたうた』が創刊されていて、読んでいました。


いまも「JANUARY 1969 VOL1 NO1」が残っていて、そこに、岡林さんのうた「手紙」の楽譜とそのコメント(「部落差別について」)と、「あきらめ節」に高田渡さんの文章(「遺物」)がありますので、文字が小さくて判読は困難でしょうが、貴重なものですので、ここにUPして置きます。


スキャン部分にポイントを置いていただくと、画面は少しは拡大されます。















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        第4章 Weekly・友へー番町出合いの家から


            第5節 Aさんへ


           『週刊・友へ』第16号、1969年8月3日


お手紙有難う。神戸も毎日きびしい暑さがつづき、汗ぐっしょりです。仕事を終えると足もクタクタになってしまいます。


今朝は起きるのがつらくなりました。岡林君の「くそくらえ節」に「金で買われた奴隷だけれど心はオレのもの」とありますが、身も心もバテでしまいそうです。


しかし、このひとりの「働きぞ」としての生活は、何者にも替えがたく思われます。昨年のしんどさよりは少しマシで、体力的な忍耐力が備わってきたことが自分でもよくわかります。


自称「カカシ」でしたのに、最近ワイフは「ターザン」のようになってきたと喜ばせてくれるほどです。みんな元気ですのでご心配なく。


ところで、あなたのお手紙で、真剣な問いかけの言葉が届けられましたので、ぼくもこのことを考えてみたいと思います。


「・・今の私には教会に行くことは辛いです。でも先生、思いの違うものにも、やはり耳を傾けなければならないでしょうか。説教中、「チガウ、チガウ、ソウジャナイ!」と、声が出てないのにまるで口が開いているように叫びながら、そんな目を向けることもできずに、ただ下を向いているだけです。こんな状態でも、教会には行かねばならないでしょうか。教会からの帰りは、ただとってもさびしいだけです。それでもここに真理があるのだとして、一生懸命聴かねばならないのでしょうか。・・」
 

僕は10号で「独立キリスト者の誕生を!」という提言を記しましたが、いまぼくたちに必要なのは、自らのこととして、「アバ父!」「ともにいます神!」に叫び、真理を探ね続けて、「発見の喜び」を深く知ることだろうと思います。


あなたの所属しておられる教会には、この探求の精神がどこかに消えうせ、すでに真理を発見してしまったかのような錯覚をもとに、いのちを失った化石語が、知らず知らずのうちに支配しているのではないでしょうか。


こうした状況にたいするぼくたちの態度は二つあると思います。ひとつは、制度的な教会のなかで踏みとどまりつつ、その欺まん性を告発しつづけることをとおして、本来のいのちを取り戻そうとする道であり、もうひとつは、既成の教会を自覚的には抜け出して、自ら独立した探求の道へと冒険と実験を潔しとして、新しい旅を始める道です。


前者はいわば「自立的キリスト者連合(自キ連)」とか「自立的牧師連合」(自牧連)に共鳴しつつ模索を続けるひとびとであり、後者は延原さんたちが始めている「加茂兄弟団」とか私たちの「番町出合いの家」の実験なのでしょう。


教会のなかで告発しつつ変革することも、ぼくたちのように「出エジプト」することも、今はさけがたいことで、誰もそれをとめることはできません。


いずれも、天来の夢を授かり、その夢を宿して、その内側からの突き上げるいのちの力によるもので、そのいのちを息づかせぬ限り、自分自身が死んでしまう、といった類のモノです。


先日も、ある青年の方がおいでになり、遅くまで話し合ったのですが、この方もまた、所属している教会にたいする根本的な問いをもって、道を尋ねつつ意欲的に歩んでおいででした。
 

その方は、大学を卒業後、将来牧師となるために神学を学んでおられるのですが、今後どのような歩みをされるのか楽しみなことです。


現在、大学闘争が展開されていないところは、よほど飼いならされた大学だけでしょうが、教会も今後、いたるところで「教会闘争」が展開されていくことでしょう。


先の青年の方が、多くの教師と学生の前で、君も道をはずせば「あの人」(ちょうどその頃、朝日新聞でぼくたちのことが大きく取り上げられていました。)のようにダラクしてしまうぞ! と叱責されたそうです。


確かにぼくたちは「道をはずしたダラクもの」として見られているのかもしれません。天与の志というものが、よくわからんのですね。それもまた、いたしかたのないことです。
 

岡林君の「ガイコツの歌」にこんなのがあります。


       ガイコツがまじめな顔してこう言った
       どうせみんなくたばって
       おいらみたいになっちまうんだから
       だいじにだいじにつかっておくれよ
       いちどしかない
       おまはんのいのち


では、また。