『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(46)第4章「Weekly・友へー番町出合いの家から」第4節「独立キリスト者の誕生を!」
1968年4月からスタートした肉体労働の経験の記録の一部は、さきの「日録・解放」でちらっとお見せした通りですが、前回もUPしましたような、会社の旅行などもあったりして、前回の四国旅行をはじめ、九州旅行などもありました。
今回は、南紀白浜に出かけたときの写真が残っていますのでUPします。このときは会社の経営者やホステスさん?のような人たちも同行した旅でした。
もう一枚の写真は、旅の写真とはあまりに落差が大きいのですが、職場のふろ場を外から映したものです。労働の後は必ず風呂に入って、汚れを流さなければ着替えもできませんから、一番大事な場所でした。さっぱりして、仕事場の近くの立ち飲みやで、友達とちょっぴり・・・。
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第4章 Wekly・友へー番町出合いの家から
第4節 独立キリスト者の誕生を!
『週刊・友へ』第10号、1969年6月29日
キリスト者とは、ほんらい「独立人間」のことである。内村鑑三も『聖書の研究』誌で「経済上の独立」について小論を掲げている。
「経済上の独立は最上の独立ではない、其上に思想上の独立がある、信仰上の独立がある。我等は経済上の独立に達したればとて、敢えて安心すべきではない。然れども経済上の独立は、すべての独立の始めであって、其基礎である。」と。
人間の思想・信仰の独立は必然的に経済の独立をともない、経済上の独立は、思想・信仰上の独立の基礎となるという事実は、われわれにとっても実験済みの真実であるといえよう。
そもそも「独立」の動因は、真理究明の過程での発見の喜びである。独立者は探究者のことである。彼らは孤立と少数を悲しまない。「道」を発見して、その「道」に連れ戻され、「独り立ち」して歩むことをこそ喜びとする。当然のことながら、独立者・自由人は不可避的に「抵抗人間」たらざるを得ない。
しかし、ここでの「抵抗」の本来的意味は、真理発見の喜びの表明の結果であって、たんなる不満の反発や反抗ではない。事柄の中心は、何といっても「真理の究明と発見」である。「新しいぶどう酒」の味を知ることである。この味を知ったものは、もはや「旧い皮袋」のなかに留まることはできない。
今年、「沖縄デー」に「自立的キリスト者連合」が結成され、「万博キリスト教館反対闘争」を展開している。知友の多い「自キ連」はキリスト者の「独立運動」のひとつだと思うのであるが、今後ここのメンバーたちが、いかなる「道」を発見し、それぞれの「生活」を展開していくか、そこが難問である。
あまりに「旧い皮袋」に拘泥するあまり、かんじんの「新しいぶどう酒」を無駄にして「心中の道」を歩みはしないか、ということが気がかりである。
飼いならされた依存的奴隷が、独立キリスト者として誕生するとは不思議なことである。五月のはじめ、朝日新聞の「標的」欄で、「鉱」氏の「カナリヤの歌」が記されていた。結語の一部だけを引用する。
「カナリヤが忘れた歌を思い出すのは、銀のカイなどもたされることではなくて、うしろの山に解放されることにあったのかもしれない。それともカナリヤは、うしろの山に捨てられて生きていけないほどに、「飼育」されつくしたのか。あわれなカナリヤ!」
だが、飼いならされた「カナリヤ」たちは、必ずや囲いのない自然の広場で、自由に飛び交い、歓喜の美声を回復するのである。
カナリヤを、象牙の船に銀のカイで、美しい月夜の海に浮かべようなどと、的はずれな夢想にふける、オマエは誰だ!
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安心して
旅立とう
無理はいらぬ
ただ
新しいわたしが
芽吹きつづける
ようにすれば
いのちの大地が
深く広く満ちている
のだから
安心して
旅立とう
無理はいらぬ
●
君は収入を何で得て
おるかね?
君は集会をして
おるかね?
唯それだけの
むなしい問い
ぼくは
つぎの問い
をまっている
君は
なぜ旅立つのか?
君は
なぜ旅立ったのか?
君の叫びは?
君の喜びは?