『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(37)第2部「新しい生活の中から」第3章「働くこと・生きること」(「日録・解放」)
当時、ある雑誌で私たちの「識字教室」の取り組みの取材があり、あの頃のまちの写真が掲載されていました。これは現物ではなく当時のコピーですから、再生が難しいのですが、大凡の感じは分かるように思いますので収めてみます。
私たちの「識字学級」というのは、仕事保障の一環として普通自動車免許を取得して安定した仕事に役立てる取り組みが始まっていて、希望する人達が自動車学校に入学するための予備学習をしながら、みなで助け合って免許をとろうということで生まれた「車友会」という新しい組織がありました。
日録の中に、「対市交渉」として出てくるのは、当時は主としてまず、この「車友会」と具体的な要求を神戸市役所に直接出向いて交渉を行っていたことを指しています。
なお、今回の日録の中に、シモーヌ・ヴェイユの翻訳書『労働と人生についての省察』をあげて置きます。
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第3章 働くこと・生きること
「日録・解放」
(前回のつづき)
1968年4月11日
ベルジャエフの『真理とは何か』を再読完了。2週間近い時間を要した。寸時を惜しんで味読することの楽しさを知ることができた。
昨日、滋賀県の施設で働いておられるOさんからお便りを戴いた。滋賀県にいたとき数回教会に見えて、かなりはっきりした問題意識をもっておられた方だった。われわれの歩みへの共感が記されていた。
4月13日
「かくれんぼ」の楽しさ。
仕事場の友だちはみな学歴などとは無関係である。ぼくも今そのひとりである。牧師性は「隠れて働き給う御方」の道具として息づいてくるところに生起するのだナ。
ベルジャエフは言う「キリスト教は社会及び宇宙の変貌と復活の宗教である。この点は公認のキリスト教においては、殆ど忘れられている。ただ過去にのみすがり、過去の消え残った光によって生き長らえてきたキリスト教は、余命幾ばくもない。」〔『真理とは何か』149頁〕。
今年のイースターはまた格別である。
4月14日
パリサイ人たちも働くものであった。だが彼らは、制度的ユダヤ教の律法的権威に依存していた。こんにちのキリスト者もこのパリサイ的意識構造と無縁ではない。現代はこの意識構造の変革期なのだ。
4月15日
労働は辛い。辛いというよりキツイ。適度の労働は気持ちがよいが、疲労がかさむと精神の活動は大きく鈍る。
白粉(タルク・ジンステなど各種の配合)がまつげに積もり、キューピーのようになる。しかし、その奥にある瞳が澄んでおれば、ものはいつも発見されていく。
ベルジャエフが「見ることによって救われる」といっていたのを想い起こすが、なぜか見る眼がぼくにもいくらか備えられてきているのか、不思議なことである。
昨日、S君の結婚祝の買い物のあと、シモーヌ・ヴェイユの『労働と人生についての省察』を購入。本を読むにも時がある。禁欲していた本を手にして「時が来た」ことを知る。
昨夜は、番町支部の事務所で、車友会の仲間と17日の神戸市交渉の打ち合わせの場に参加した。熱心に語り合われるサマに強く打たれた。
神戸交渉のために1日休めば1300円の日当と皆勤手当てとして1日分、合計2600円の減収となる。交渉に熱が入るのも当然である。
こころはからだのためにある
からだはこころのためにある
それでは
こころとからだは
なんのために?
労働しながらふとおもう
(つづく)