『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(59)第6章「断章・ある日の午後のことー母校・同志社へのゆきかえり」(上)

1970年代になって、あるご縁から、奇妙な組み合わせの「悪童会」なるものが生まれて、不定期ながら我が家と、兵庫県山崎町と、そして京都と大阪と、お互いに出向いては、取り止めのない語らいを楽しんできました。


常連のメンバーは5人でその中には、歌を詠む人や小説を書くひともいて、異年齢で男女混合、話題も尽きず、山崎町での集まりは、泊り込みでお邪魔するという悪童ぶりで、「悪童会」という名前まで出来てしまいました。そうこうしているうちに、何か表現するものが欲しくなって、『鄙語』と命名された同人誌がつくられるようになりました。ゲスト寄稿もあったりして、1980年11月に第8号まで出してきたように思います。


メンバーの一人は既にお亡くなりになり、一番若かった方とは久しく連絡不通のままですが、大阪にお住まいのお方とは、過日お訪ねして、旧交を温めました。


もうひとりのお方は、「悪童会」のお仲間には似つかわしくないようなお人ですが、ご高齢になられても、ずっと立派な歌集などおつくりになっています。
頂いた年賀には、次の歌が添えられています。


        人の世のえにしは 所詮 百年か
        敬仰の師も 追慕の君も


第6章は、上下2回に分けて掲載します。これも、若い時のもので、最初の「中根アパート」時代のものです。





今回のものは、珍しく母校・同志社を訪ねるものです。どなたのステッチかわかりませんが、私たちの学んだ同志社のシンボル・神学館が正面に描かれている絵が手元に残っていました。ここで、6年間学び、私たちの卒業の時に、この隣に新しい神学館が完成いたしました。





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      第6章 断章 ある日の午後のこと(上)


          ―母校・同志社へのゆきかえり


                 (同人誌『鄙語』第4号、1977年3月)


*月*日、10年ぶりぐらいにでもなるであろうか、本当に久しぶりに、母校の同志社へ出かけた。秋晴れの午後である。三宮から京都まで阪急電車に乗る。(もし国鉄を利用すれば、このたびの値上げで片道600円。阪急はその半分であるから、今うかつに国鉄に乗ってはなりませぬ)


車中、乗る前に買い求めた新刊訳書・M・リューサー著『人間解放の神学』を読み始める。これは意外と面白い。現代アメリカにおける「女性解放に神学」の提唱は、これまでのJ・H・コーンなどによる「黒人解放の神学」が落ち込んだ落とし穴=抑圧され差別された者を無限定的に絶対視する単なる同一化論の主張=の、その底を割ったところに発見される「普遍的人間」を基礎にした批判的見解が明らかにされている点で、特に興味深いのである。
たとえば、次の指摘は重要である。


「被害者即『聖徒』ではない」「被抑圧者を理想化して、彼らを悪を行うことが出来ず、従ってすべてを許されている『苦難の救済者』と考え、頼まれもしないのに彼らと同一化をはかろうとする場合、仲介者としてのインテルのバイタリティーは消えてしまう」「すべての解放の神学は、抑圧者―被抑圧者と言う黙示的・セクト主義的類型から脱皮しない限り失敗に終わるだろう。被抑圧者は自己同一性の基盤として普遍的人間性の確認を行い、また自己批判を行う力を持たなくてはならない」。


ここには、彼女が記すように「真に『存在する』ものの基礎であり目標でもある超越的根底」が気付かれていることは確実である。


だがM・リューサーの場合、「普遍的人間性」といい「基盤」といっても、その省察はまだ決して十分に深められているとはいえない。


特に、「真の実践から創り出された理論」とか「神学は行動によって造られる」「解放の神学は、先験的ドグマではなく実践の創造的な反映なのである」という、通俗の実践的倫理主義が清算されていない点は批判されなければならないところである。


それにしても、こうした面白い書物に出合う事はうれしいものである。よいホンに触れることは、人生の悦びの最も重要な要素の一つである。


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終点の京都四条河原町に着く。地下鉄から路上に出ると、大きな阪急百貨店がある。多分これは以前にはなかったのでは? 


少し歩いてみようと思い、四条から三条まで、古本屋を二つ三つのぞいてみる。ふらっと古本屋をのぞくのは、僕の趣味のひとつであるが、このところ時間が作れず、この楽しみが奪われてしまっていた。


こうしてぶらついていると、たまにではあっても思いがけず、いい本に出会うことがある。学生時代、瀧澤克巳の名著『カール・バルト研究』に出くわしたのも古本屋での事であった。今回も、久松真一著作集第2巻の『絶対主体道』が出ていたのだが、ズボン左後ろポケットのゲル〔銭〕の具合が悪くて、ただ立ち読みだけ。


 京都でも近く廃止されるとも聞く古い市電に乗って、三条から河原町今出川まで。学生の頃の市電は、多分15円の車掌付であったが、廃止寸前の今、ワンマンで90円である。たまに乗ると乗り降りにまごつく。


 3時近くにもなっているのに、昼食がまだである。誰でもそうに違いないのだが、遠い過去のことでも、特にうまかった味の記憶はすぐ甦ってくるものである。
今出川角のあの飯屋、そう!「マルゼン」のブタ汁。あれが僕を呼んでいる。
ところが、近づいてみると「学生以外はお断り」とある。そういわれてみると、此処は以前から学生専門の安くてうまいサービスの店であった。


僕は、やむなく別の飯屋を探す。もう一軒の懐かしい飯屋。薄汚れた店ではあったが、好物の焼き飯〔勿論スープ付〕が大変うまいところだった。関取の大内山にも似た顔つきの、大柄なヒゲ面のおやじさんがやっていた。


しかし、この店はどういうわけか今はなくなっている。仕方なく、「かやく」専門店に入り、どんぶり一杯のかやく飯と特製うどんで大満腹。
  

             * *


少しの時間、相国寺裏の同志社此春寮の寮母さんを訪ねる。大学入試のときから卒業時の結婚の折まで、色々とお世話になったママさんである。


その頃、神学部寮はほかに壮図寮とベタニヤ寮〔女子寮〕とがあった。僕は、左京区岩倉の壮図寮にいたのであるが、時々学校の行き帰りに此春寮に立ち寄っては、ママさんにご馳走になっていたものである。


寮にはそれぞれ寮風と言うものがあって、どちらかと言えば、此春寮は社会派で実践活動を重んじ、僕らの壮図寮は個性を生かした学究的(?)寮風を持っていた。ちょうど僕らの居た頃が、神学部寮としての最後の良き時代であった、と言えるのかもしれない。60年アンポを挟んでの頃のことである。


その後、神学部は総合大学にふさわしく、積極的で学際的な開かれた神学を目指して、新しい方向性を模索し踏み出していった。こうして、神学部寮も一般学生寮として解放されていくのである。
 しかし、その過程は決して平坦であるわけではない。多くの場合、少なからぬ軋轢を生じ、深刻な疑問が幾重にも広がる。


ママさんとて例外ではない。あの大学闘争や万博闘争で、最も敏感に対応する学生たちのもとで、同時代の苦しみを分かつ。そして、神学部の教授たちや所属する教会の牧師たちとの関係が途絶えていく。


勿論、関係の途絶えにも二つある。ひとつは積極的に根を持つ途絶えであり、他に単なる失望と疑惑からくる消極的途絶えである。信仰のリアリティーをいよいよ発揮する途絶えと、底の割れた明るさや気迫を失ってうつろなニヒリズムに落ち込む途絶えとがある。


数年前から、このママさんを中心に『プロテスト群像―此春寮30年史』が編まれつつある。既にすばらしい装丁の見本も完成し、近く出版の運びである。寮史がこうしたかたちでまとめられるのは、全国的も珍しい。
だが、これらの「プロテスト群像」たちが、どれほど的確に根を持つ積極的プロテストたりえているかは、僕たちの安易な判断を許さぬものがある。


根を持つ人生は、いつでもどこでも始められ得る「行き易き道」であるとはいえ、それが常に困難で「狭き道」であることもまた事実である。
ママさんは定年まであと2年という。機会を見つけて再び訪ねてみたい。

  

    (次回につづく)