『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(61)第7章「神戸女学院での小話ひとつー同和問題とわたしたち」はじめに・第1節「同和問題とは何かーその基礎的理解」


この第7章では、今から33年も前、1978年11月に神戸女学院中高部で生徒たちに語ったお話が、翌年にパンフレットにされて残されていたものがありましたので、それを収めています。


私にとってこのとき、1968年に「番町出合いの家」を開設してちょうど10年が過ぎた時のものようで、昔々その昔、というものですが、詩人の丸岡忠雄先生とはじめてお会いした時の講演だったようで、個人的には大変、想い出深いものです。このときから、先生の最晩年の10年余、深い交流を重ねて、先生の詩集づくりのお手伝いもできました。惜しくも先生は、50代の半ば過ぎ急逝されました。


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          第7章 神戸女学院での小話ひとつ


              同和問題とわたしたち


                 (1978年11月29日・中高部)


                はじめに


初めて神戸女学院に参りましたが、同志社におりました頃の先生方や先輩方が沢山おられますので、何か母校に帰ってきたような感じがいたします。


ご紹介いただきましたように、今からちょうど10年ばかり前に、私たちは、神戸の長田区にあります同和地区で生活を始めました。それまで、同じ神戸の葺合区にあります「神戸イエス団教会」と言う、賀川豊彦先生の活動に強く心を動かされた方々が集う、大変面白い教会で2年間働いていました。


賀川豊彦という方は、1960年になくなりましたから、皆さんはこの名前を聞いても、殆ど関心も記憶もないかもしれませんが、賀川先生は1888年に神戸で生まれた方で、日本のキリスト教界だけでなく、労働運動や農民運動、生活協同組合運動や部落解放運動など、幅広い影響を残した方です。


彼は、1909年〔明治42年〕のクリスマスイブに、当時日本で最もひどかったと言われる神戸の「葺合・新川」に、わずかな生活用具を荷車に載せて、ひとり移り住み、新しい歩みを始めたという話とか、そこでの生活を小説にした超ベストセラー『死線を越えて』のことなどは、何かの機会にお聞きになったことがあるでしょう。


 私たちの場合、賀川先生のような時代とは全く違いますし、ごくあたりまえの、自然な生き方のひとつに過ぎないことは、改めて言うまでもありません。ただ、私たちの場合、それまでの牧師としての生活を止めて、今度はこの地域でも多くの人たちが働いているゴム工場のいち工員――最初は工員というより雑役としては入るのですが――の生活ということですから、確かにそれは大きな生活の変化でした。


 勿論、私たちにとって牧師であることと、一工員、一雑役となることとは、決して矛盾することではありませんでした。所属する日本基督教団の兵庫教区からは、私たちの新しい歩みに対し、特に6畳1間の敷金に当てるお金として5万円をお借りしたりしました。勿論このお金は、毎月2千円ずつ返済するものですね。「番町出合いの家」と言う新しい伝道所の開設届も、快く受理していただきました。


 こうして、自称「労働牧師」としての生活が始まったのです。その後のゴム工場での仕事のことや、キリスト教に直接かかわることなどは今朝はすべて省略して、「同和問題とわたしたち」という主題に即して、ここ10年間ほどのあいだの生活の中から学んだ幾つかのことを、ほんの少しお話をすることにいたします。



     第1節 同和問題とは何か――その基礎的理解


山口県に光市というところがあります。瀬戸内海に面した美しいまちです。昨年の春、そこの高州という地域を訪ねたことがあります。


そこに、詩人で丸岡忠雄と言う方がおられます。その方の自宅で毎週月曜日の夜、部落問題の学習会が開かれていて、その夜それに参加しました。


この集まりは、人呼んで「丸岡塾」とも言われ、高校生や青年たちが遠くから近くから多く集まってきて、いろいろと部落問題について自由に語り合っては帰ってゆくのです。そのときも、出席していたある若者が、「この集まりに参加しなければ、一週間が始まらないような気持ちになる」と話していました。この「丸岡塾」は、この人たちにとって、私たちの経験している「教会」のような場所なんだな、と思ったりしました。


丸岡さんの作品で、「ふるさと」という詩はよく知られています。もう随分前、20年ほども前になると思いますが、次のよううたです。


              かつて

            ペテロは三度
            イエスを否んだ
            わたしは 幾度
            ふるさとを否んだ か


            故知らぬかげにおびえ
            「ふるさと」の重みに 息をのみ
            異郷に ひとり居て
            ふるさとびととの邂逅を
            わたしは 蟹のように怖れた
                     『詩集・部落―五本目の指』より


故郷は、私たちの生まれ育つ場所であり、時折帰り休むところです。
ところが、故郷を「部落」にもつ丸岡さんは、長い間故郷を否み、友との再会を恐れる苦悩を強いられてきました。


しかし、皆さんも既にお分かりのように、このような詩の形で表現されたとき、既に丸岡さんの心の底では、それはここでは、過去の「かつて」のこととして捉えられているのです。


「故知らぬ影におびえ」た若き日の、暗く重いあゆみから、心機一転して、故郷をよみがえらせる、丸岡さんの新しい出発がそこにあったのです。


皆さんは既に、同和問題についての正しい理解をある程度お持ちだと思います。私たちも戦後の教育で大きくなったのですが、今のような同和教育などありませんでしたから、いわゆる常識的なことすら知らないまま高校を卒業していました。 


皆さんの教科書の中に、部落問題についての記述が加えられたのは、まだ四、五年前からですが、授業時間やホームルームその他の機会に、部落差別がいつごろどのような意図で作られ、明治以後もなぜ残され、戦後今日に至るまで、問題解決の取り組みがどうすすみ、今どんな課題を残しているか、と言った点について、大体のことは学んでおいでだと思います。


ですから、もし皆さんのご両親やご家族の方が、昔ながらの偏見や間違った考え方を持っておられた場合でも、きっと皆さんは、堂々と自信を持って、これまで学んだことを、分かりやすく家族の人たちに教えてあげる、と言ったことが、今ではたびたび起こるわけです。


丁度2年ほど前ですが、神戸市民の20歳以上の人たちに約2500名を対象に「同和問題意識調査」を実施いたしましたが、その中のひとつだけ紹介してみましょう。少々大掛かりな調査でしたが、設問のひとつに、次のような項目がありました、


「仮に、あなたのお子さんが親しく付き合っている友達が、何かのことで「部落」の人であることが分かった場合、あなたはどうされますか」


神戸でも最近では、地元のサンテレビを活用して神戸市の制作になる特別番組を企画したり、講演会やいろんな学習会が工夫されています。


あとでも少し触れたいと思いますが、同和問題を根本的に解決するための総合的な事業が計画的に進められています。


映画監督の若杉光夫さんが、ご自分で脚本も書いてつくられた最新作「コスモスの咲く街」という映画も神戸市の制作ですが、明後日、その試写会をいたします。


こうした努力をいま始めているにも関わらず、この調査結果は(2年前とはいえ)「これまでと同じように親しくつき合わせる」と答えた大人はまだ8割にとどまっていました。


これは勿論、10年前、いや5年前に比べてさえ大きく増えていることは確かですし、今ではもっと多くなっているとは思います。


それにしまして、「出来るだけ付き合わないように、子供に行って聞かせる」と言う答えが18・8%、「絶対に付き合わないようにさせる」という答えが0・8%、「無回答」が5・7%という結果がみられました。私たちは改めて、神戸市民の同和問題に対する正しい理解を促進させる課題のあることを教えられたわけです。


皆さんのお家の方の答えは、どういうことになるでしょうか
若い皆さんの間では、たとえ家族の人から付き合うなといわれたとしても、親しい友達との友情を絶つようなバカなことは、決してありはしないでしょう。皆さんのような、若者たちは、ご両親などの成長してきた時代と違って、こうした社会のひずみを乗り越え、新しい世の中をつくってゆく、勇気と力があるはずですね。


改めて言うまでもなく、同和問題とは、人間と社会を冒涜し、踏みにじることによって起とう、伸びようとする、人間の悪知恵からつくられたシロモノです。人間同士を分け隔てして支配するために仕掛けが、封建的身分制度の基本にはありました。
しかしそれは、決して私たちの力でどうすることもできない運命的なことではありません。


「初めに差別があった」のではありません。「はじめにことばがあった」(ヨハネ1・1)のです。


この世界の目に見える形や境遇――財産・学歴・地位など――とはまったく価値をことにする人間共通の基盤・動かぬ土台が、われわれにもしっかりと裏打ちされているのです。


だからこそ、私たちはどのような境遇の中にあっても、これを乗り越えて希望を失わずに生き続けることができるのです。また、そのように生きなければならないのです。