『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(61)第7章「神戸女学院での小話日とつー同和問題とわたしたち」第2節「部落解放への取り組みー水平運動の基調」

この「小話」でも触れている作家の住井すゑさんの作品は、これを語った当時、広く読まれていました。


これは、2002年のシネマフロントの別冊35号の表紙です。




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        第7章 神戸女学院での小話ひとつ


             同和問題とわたしたち


                  1978年11月29日

   
           第2節 部落解放への取り組み


                 ――水平運動の基調―


ところで、この人間共通の基盤に目覚めて、部落差別をなくすための組織的な取り組みが進められてきたことについて、少しだけふれておきたいと思います。


すでに、ほとんどの方はご存じと思いますが、大正11年3月3日、京都の岡崎公会堂に全国から3000名の人々が集まって「全国水平社」が結成されました。


今も多くの方に読まれ続けている住井すゑさんの大河小説「橋のない川」(全7巻)は、当時の状況を扱ったものです。当時はまだ、部落差別は厳しく、その解決の手立てもほんの小手先のことで終始していました。そのような中での全国水平社の結成でしたから、それは解放運動史上、まさに画期的な出来事でありました。


とくに、そのときの「水平社宣言」は、今日でも日本の最初の人権宣言といわれるほど、重要な宣言のひとつであり、「水平社の運動」は、それこそまさに燎原の火のごとく、全国に波及して行ったのです。
この「宣言」の一部を紹介してみましょう。


「・・吾等の中より人間を尊厳する事によって自ら解放せんとする・・」
「・・ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられ呪われた夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、枯れずにあった・・」
「吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱め人間を冒涜してはならぬ。そして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、人間をいたわる事が何んであるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。
    水平社は、かくして生れた。
    人の世に熱あれ、人間に光あれ・・」


この宣言を起草したのは、先年(1970年)なくなられた西光万吉という方でした。彼は、そのころ、ガス会社の修理工をしていて、島原の「すみや」の屋上の物干し台で、仕事の合間に、鉛筆をなめながら、小さい手帳に細かい字で書き上げたと伝えられています。西光さんは、絵を書いたり戯曲を作ったり、巾の広い活動をされた方として知られていますが、これは当時まだ青年だった西光自身の叫びでもあったのです。


幾世代にもわたる厳しい部落差別の中にあって、人間の絶対的な尊厳性が微動だにしない、その基盤=神の足台(マタイ5・35)に、幸いにも目覚めることのできた青年(たち)の、驚きの声だということもできるでしょう。


この「水平社宣言」の前に創立趣意書として作られた「よき日の為に」と言う文章があります。


これもぜひ皆さんに一部でも紹介しておきたいと思います。西光さんは、当時演劇に興味を持ち、ゴーリキーの「どん底」を芝居で観たり脚本を読んだりされたそうですが、これに大いに触発されて書き上げたもので、今でも私たちの心を強く打つものがあります。


「・・人間は元来、いたわるべきものじゃなく、尊敬すべきもんだ・・哀れっぽいことを言って人間を安っぽくしちゃあいけね。尊敬せにゃならん。・・我々も素晴らしい人間であることを、喜ばねばならない。


われわれは、すなわち因習的階級性の受難者は、今までのように、尊敬すべき人間を安っぽくするようなことをしてはいけない。・・我々の運命は、生きねばならぬ運命だ。・・すなわち、それは我々が悲嘆と苦悩に疲れ果てて坊全治していることではなく、――終わりまで待つものは救わるべしーーといったナザレのイエスの心持に生きることだ。


・・我々は大胆に前を見る。そこにはもう、ゴルゴンの影もない。火と水と二河のむこうに、よき日が照り輝いている。そしてそこへわれらの足下から素晴らしい道が通じている。


・・われらの前に無碍道がある。・・起きてみろー―夜明けだ。・・よって来いー夜明けの洗礼を受けるのだ。・・起きて見ろ。−夜明けだ。」


こうして立ち上がった部落解放運動も、数多くの試行錯誤を経て進められてきました。また、ここでは触れることができませんが、「水平社宣言」そのものについても、いくつかの問題をはらんでいるように思います。私たちは、批判すべきことは、恐れずに率直に批判を加え、積極的なものをさらに生かしていく努力がいつも必要であるのです。


部落解放への取り組みは、同和地区の人々だけの運動ではなくて、心ある多くの人たちの共同の取り組みとして戦前・戦後、今日に至るまで積み上げられてきたのです。


    (つづく)