賀川豊彦の畏友・村島帰之(80)−村島「アメリカ大陸を跨ぐ」(10)

「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿文の最終回です。


       アメリカ大陸を跨ぐ(10)       バンクーバーからシカゴまで
                             村島帰之

    
   (前承)
    シカゴ

  二十七日前
 汽車はいよいよシカゴに近づいた。アメリカ第二の大都會、犯罪の都、そうした概念をもって、私は次第々々にシカゴに近づいて行くのだ。

 汽車はシカゴの町へ這入った。何といふ薄ぎたない都會だらう。日本なら神戸に這入らうとして、新川の貧民窟附近を通ってゐるといふ感じだ。只平家のスラムが十層近くのアパートに代ってゐるといふだけの差はあっても。

 汽車がつくと、YMCAの島津岬さんが、瀧澤さんとー緒に迎ひに来て下さってゐる。
 新聞記者が寫真班員と来てゐる。記者は賀川先生を掴へて二分とは對話してゐなかったが、寫真班員は悠々として、先生をプラットに立たせた儘、徐に三脚をすえ、ピントを合せ、そして、フラッシュ・ランプを焚いた。その間、十分以上もかゝったらう。気の短い日本の名士なら、癇癪を起して行って了ふところだらう。

 島津さんの発議で「クリスチャン・センチュリー」を訪間する事になる。駅から直ぐなので歩いて行く。
 シカゴの街は、さすがに魔天楼も高い。が、それがことごとく煤烟のためによごれて、真っ黒だ。
 「岡山の城は黒いから烏城といふが、シカゴの街は黒いから烏街といはうか」
と私は賀川先生にそういったほどだ。

 建物の前部に、雷光型の非常梯子の見える家が多い。
 クリスチャン・センチュリーではハッチェソン氏が悦んで先生を迎へた。青年會の話、協同組合の主張、支那の旅行談などが先生の口から突いて出る。

 そこを出て取り敢へずYMCAへ行く。そして着物をそこへ置いて、シカゴの自然博物館へ出かける。先生は熱心に有史前の動物を研究される。私は土人の祭祀などの土俗の參考品を面白く見た。

 YMCAへ帰ってから、私は寝ることにした。その間に先生は、邦人有志のために、一席の講演をせられる。

 六時、歓迎晩餐會が催される。私も起きて出る。日本に三四十年も居られたコウズ博士も見える。「有名無実ですよ」などといふ漢語を用はれる。シカゴ大學に居られる加藤博士も見えた。

 シカゴはまた改めて来るとして、私たちは晩餐をすませて直ぐ尻を上げた。トロントに向ってまた汽車に乗るために。

 汽車は出た。カナダに這入るので、また移民官の検閲だ。まづアメリカの官吏が来て、次でカナダの官吏が来た。しかし、双方とも簡単で通してくれた。

 私たちは夢の中にカナダとアメリカの國境を越えた。

     (この号での掲載はここで終わる。このタイトルの続きは、第10巻第10号に継続されているので、追ってここで収めて置きたい。)