賀川豊彦の畏友・村島帰之(79)−村島「アメリカ大陸を跨ぐ」(9)

「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿した続きです。


       アメリカ大陸を跨ぐ(9)       バンクーバーからシカゴまで
                             村島帰之

    
   (前承)
   ロ ツ キ ー
 夕方からロッキーにかゝった。
 山また山だ。
 しかし、ロッキーは、どこが山嶺なのか、見当がつかない。山脈としては、それが当然なのだらうが。

 夕陽が照る。遥か東方の山は、それに照り映えて、プリズムのやうな色彩の断層を見せる。その上を直角に虹が立ってゐる。
 汽車と、そのプリズムの美しい山と山との間は、何萬町歩とも知れぬ荒漠たる平野だ。
 何といふ壮大な景色だらう。島國では見られぬ壮観だ。
 汽車はその山の方へ走って行くらしい。が、暑い事は耐らなく暑い。と共に、腹はよく減る。毎食事は定食の殆ど全部を平げる。
 汽車の中なので(駅売りなんてものは全く来ない)定食は一弗以上だ。

 九時、オープンカーが取り除かれたので帰って来る。
 余りの暑さに少し窓をあけておくと、ひどいススだ。モウ風景の観賞の必要がないので、電気機関車を廃して汽罐車に代えたからだ。

 夜中、ふと目をさますと、汽車に小駅に止まってゐて、構内に留置になってゐる貨車の上を、七日あまりの月が照ってゐる。
 月は何となく人をセンチにさせる。或は東洋人特有の心理なのかも知れないが。
 遥かに家郷を思ひ出して、祈りつつ眠る。米大陸は夜半でも、日本は未だ真昼で、愛児は野球シャツ一つで飛廻ってゐる事だらう。

 廿六日
 けふは寝坊をした。八時だ。愚圖々々してゐては食事を食べ損なはねばならない。早速起きて、折柄、着いた駅に降りて新聞を買ふ。
 サンデーペーパーなので十仙だ。新聞はスポーツが最も多くのスペースをとり、これに次では社交や流行や新刊紹介が数頁づつをとってゐる。

 黒ん坊のボーイが鼻血を出したので、早速小川先生がメンソレータムを綿につめて鼻につめてやる。小罐のメンソレータムは一時に半分ほどなくなって了ふ。それほど彼の鼻の穴は大きいのだ。
 小川先生はこれによってドクトル・メンソレータムの称号を奉られる。

 けふは、もう前日のやうな山峡美などは全く見られない。一面の廣漠たる平原だ。果てしもしらね廣原だ。
 水平線か限りなくつづく。
 時には、水平線上に、放牧された牛馬の姿を見、時には積重れられた小麦の束を見た。 ミレーの絵だ。

 たとへバラツクでも何十里に一軒も家を見ない處が多い、只これヘイでなければ小参の畑、畑、畑、畑だ。
 農夫の姿も全く見えない。耕すとか、間引くとか、濯漑するとかを知らぬ沃野なのだ。只天から降ゐ水が必要なだけだ。

 けふは日曜なので、礼拝説教のラヂオ放送があると思って、展望車へ出かける。果せるかな、ホーリーホーリーの讃美歌に始まって、説教があった。讃美歌はニューヨークのどこかの聖歌隊だった。

 午後三時、アバーディン着。五分間停車といふので、上衣を脱いだ儘、下車して見る。 とても暑い。空気そのものが火のやうだ。人は日影をよって歩く。
 車内のアイスウォーターに補給する氷を山のやうに積んで来てゐる。
 日影に立ってゐる駅夫に訊くと、撮氏百十五度だといふ。

 車内が暑い筈だ。といふ訳は、さなきだに外気の熱してゐる上へもって来て、われ等の乗るプルマンカーは内部がすべて鋼鉄で出来てゐるので、熱を持ったが最後、容易にさめない。それに各寝台は一組づつセクションを作ってゐて、各セクションの間には、これまた鋼鉄の区切が立てられてあるのだから、何のことはない。私たち一同が罐詰に這入って消毒されてゐるやうなものだ。

 ひっきりなしに室外のアイスウォーターを呑みに行く。アイスウオーターは、水道の水のやうに栓一つひねれば出て来るのだ。紙コップが、自動的に上から一つ一つ落ちて来る仕掛だ。

 小川先生が隣りのアメリカボーイとすっかり仲よしになって、ジャンケンを数えたり手品を数えたりする。
 汽車が留ると「時間かあるか」と訊いて停車時間だけ下車する。
 アイスカウト! と呼び乍ら、筒入のアイスクリームを売りに来る少年のある以外、賣子は一人も来ない。
 エハガキ一つ買ふにも、駅の買店まで走らねばならぬ。
 けふはもうオープンカーもないので、罐詰りながら眠る。

 賀川先生は頻りと瞑想してゐられる。講演の腹案を作って居られるのだ。
 「暑熱と戦ふには瞑想に限る」といって。

 夜に入ると、少しは涼しくなったといひたいが、依然たる暑熱だ。
 展望車でラヂオを聞きながら、九時すぎまで外人の中に、只一人の東洋人として踏み留る。

      (つづく)