賀川豊彦の畏友・村島帰之(97)−村島「アメリカ紀行」(2)

  「雲の柱」昭和7年1月号(第11巻第1号)への寄稿の続きです。

    
          アメリカ紀行(2)     
                            村島帰之


  (承前)
   十一日
 よく眠った。涼しかったからでもあるが、永い間汽車や外人ホテルで、真の安眠を取られずに来たからである。日本人経営のハウスで、白分独り眠ったのは可成り久振りであった。

 午後二時からYMCAに泊ってゐる柳田さん(シカゴ大學物理化學科學生)に連れられてシカゴ大學へ行く。
 一大學生ロックフェラーが、同窓の友に「君は學者となれ、僕は実業家になる。そして僕に君のために大學を寄附しやう」と約束したことから、この大學は生れたのだと柳田さんが説明してくれる。

 私は犯罪學の文献がほしかったので出版部へつれて行って貰って目録を貰ふ。
 何しろ世界の富豪が支持してゐる大學だけあって、大建築が矢鱈に建て連ねられて、寧ろ立てつまりすぎたやうな思ひがする。

 ゴチック式の塔のある建物を、礼拝堂か図書館かと思って行って見ると食堂だったりしたほど建物を贅沢してゐるのは、貧しい日本からのエトランゼには奇異の感を抱かせずには置かぬほどだ。

 賀川先生をその構内の一建物に訪ねる。そして四時からのチヤペルにおける先生の講演第二回目を聞く。けふは「基督による革命」といふ題で話された。

 先生の美しいフレーズが口をついで出る。満堂の聴衆は酔えるが如く傾聴した。講演がすんでから、折柄来会した林博太郎伯と島津さんと柳田さんと私の四人は、また賀川先生たちと別れてYMCAへ帰り、島津さんの私宅で四人晩餐を頂く。
 林伯の自然科學に関する話を十一時近くまで面白く承る。

 賀川先生と全一日別れてゐるので、心配になる。尤も、先生の方がより以上に私の事を心配してゐて下さるに違ひないが。

 十二日
 朝の間は手紙などを書いてゐて空しく過して了った。先生の方からも電話一つかゝって来ない。で、午後は思ひ切って独りでシカゴの町へ出て行く事にした。

 電車にのって、汽車の時間表についてゐた小さなシカゴ地圖を頼りに、シカゴの繁華な街と聞いたランドルフストリートで降車。豫てシカゴの百貨店と聞いてゐた所へ這入って見た。日本のやうに混んではゐないので、本宮の店らしい気がする。

 そこを出て、街のそちこちを見て歩く。電車や自動車が織るやうに行き交ふ中を、レデーたちが落ついて道を横切る。交遁道徳を守るのと道路が整然と出来てゐるからだ。
 人道には日本のやうな車や荷を置いてないから大手をふって歩ける。

 弗の國アメリカも不景気は争へない。各商店のショーウインドーには、値下した値段を大書して雑貨物を並べてゐる。こんな事はアメリカとしては余り見なかった現象だといふ事だ。

 パレース劇場といふのへ這入る。入場料は五拾銭。すべてがシカゴ劇場に似てゐる。手風琴の独奏に始まって、百萬長者の音楽隊といふ漫画劇とでもいいたいショーがある。小さな男が出たり、大きな男が出たりして滑稽の限りをつくす。

 そこを出て、とあるランチ店へ這入る。そこは「欲しいだけ喰べて六十仙」と書いてあったが、人間の食量には限界があって、さう沢山にたべられるものではない。三四品たべて出る。

 街を行くと、女の着物の単色が、いつも模様ものの日本のキモノを見つけてゐる者には却って美しく見える。美しさは小さな柄の美より、やはり肉体や皮膚の色に適合した色合にあるやうに思はれた。
 街をモット観察するために、歩ける丈け歩いて帰る事にする。

 シカゴも美しいのは一局部で、六七丁も離れると、ガランとした煤けた垢だらけの都會だ。殊に至る處に黒人が住んでゐて、曲り歪んだ古道具などをショーウインドーに並べてゐるのが余計に町をきたなく見せる。

 だんだん南へ来ると、ストックヤード(屠牛場)の匂がする。シカゴの名所だといふが、私は行って見る気がしない。

 疲れたので十五丁目あたりで電車にのる。降りる場所を見遁さぬやうにと、窓に顔をつけて町名札に注意する。で、無事に36町目で降りることが出来た。

 YMCAの附近は以前は米人の住居地域だったが、いつの間にか黒人に占領されて了ったのだといふ。米人は黒人が近くへ来ると直ぐ引越して了ふからだ。グレシャムの法則が当てはまる。

 イタリー人も多い。これが一番犯罪率が多いといふ。
 「夜分は一人歩きをしないがよろしい。殊に日本人は金を持ってゐると思はれてゐるから余計危瞼です。」と瀧澤さんは教えてくれた。

 夜はYMCΛで賀川先生の講演だ。島津さんは自家の印刷機で、白身拾った活字で印刷したハガキを在留邦人へ発送して置かれたので百五十人余りの人が集った。先生は日本の近状を面白く話された。

 その後で先生の経営事業の映画を寫す。小川先生が技師で、私が活辨を勤める。
 終わってから賀川・小川両先生及び瀧澤さんと付近のドラッグストアーヘ行ってアイスクリームをたべる。
 ドラッグにはトニック(薬用)と称してアルコール含有二十二パーセントのワインを賣ってゐる。そして食後に分服せよなどと書いてあって巧みに法網をくゞってゐる。酒呑が薬を買ひに行くといふのもアメリカらしいナンセンスだ。

 三日振りに一緒に寝る。

       (つづく)