賀川豊彦の畏友・村島帰之(96)−村島「アメリカ紀行」(1)

「雲の柱」昭和7年1月号(第11巻第1号)へ寄稿したレポートの分載をはじめます。


          アメリカ紀行(1)     
                           村島帰之

  シ カ ゴ
  八月十日
 朝八時、シカゴステーション着。島津岬氏と外にシカゴ神学校主事キャッシュマン氏及び神學生の諸君が出迎へてくれる。賀川先生はキャッシュマン氏に伴はれ、小川先生と一緒にすぐシカゴ大學構内の神學部職員ホームの方へ行かれる。私だけは島津さんに伴はれてYMCAへ。

 島津さんはシカゴに居ること既に六年、最初は日本人のために小規模なホームを経営して居られたが、今を去る二十年前、今の日本人YMCAを設立して、日本人のために何彼となく世話をしてゐられる。

 賀川先生は「島津さんは領事以上の民間日本領事だ」といったが、それに違ひない。YMCAにゐる人の話を聞くと、日本人で死人があったり、警察事故があったりすると、領事館から直ぐ島津さんのところへいって来る。何のことはない。此方が領事館だ。領事の俸給はよろしく島津さんに支払ふべきだ――といふ。

 島津さんは見るからに親しみのあゐ好紳士で、私にこんなおじさんがあったら、お小遣いをせびるのに善いがなア」と思ったほどだ。この日の事は別に書くつもりだ。

 食事をしてあてがはれた明るい部屋で、ベッドの上に横はってゐると、いつの問にか、うとうとして寝入って了った。そして目をさましたのは午後二時。永い間の睡眠不足の蓄積を清算した訳だ。
 既に食事の時間を経過してゐるので、町へ出て果物を買って来て昼飯に代える。

 午後はYMCA萬國大會の記事を書いて大阪毎日へ送る。
 四時、賀川先生から電話がかかって来たので、島津さんとー緒に指圖に従って、テーラーさんのセツルメント Chicago Commonへ出かける。イタリー人の沢山住んでゐる細民地区だ。
テーラーさんは之等の外人を米國の文化に浴させて米國化しやうとして、此處にセツルされるとの事だった。
 テーラーさんは今年八十の老人で、今日まで三十二年の久しきに亘って、細民の友として働いて来られたのだ。

 テーラー夫妻の案内で館内を見せて貰ふ。特に変わった處とてもないが、家庭を持つ準備の教育を娘たちのためにしてゐるのや、体育のためのダンスや、職業教育としての手工をやってゐるのが目についた位だ。それよりも、テーラー氏がギャングの親方たちの政治的進出に對し極力抗争してゐた苦心談を面白く聞いた。

 けふは旧教徒の祭日で、セツルメントの前の通りを楽隊が行進したり、肖像が街頭に飾られ、その附近にいろいろの店が出てゐたりする。日本のお祭と似てゐる。私たちはその人ごみの中を見て歩いた。

 先生は此の日午後四時からシカゴ大學の神學部チヤペルで「基督教と社會改造の精神」第一講「社会改造の精神としての十字架」について講演されたのだったが、入場し切れなかった者も多かったといふ。

 先生に別れて、私と島津さんとは、ステーㇳ街のシカゴ劇場へ行く。娯楽研究のためだ。美しい制服制帽のボーイに案内されて席につく。

 廣い劇場だ。舞台の両脇には女神の彫刻などがあって紫や赤の光線で彩られ、その下からはホーンを通じて舞台の音楽が拡大されて聞えて来る。

 舞台では今、音楽の最中だ。まばゆいやうな光線か楽師の上に注がれて、彼の頭の髪の毛を光滓よく反射する。音楽がすむと、日本の芝居の競り上げと同じやうに、楽師も楽器もその儘奈落へ姿を消して了ふ。

 音楽の次はレッグショーだ。舞台の前面全体に立木があると思ってゐたら、オーケストラの進行につれて、その立木が動き出して、木の幹と思ったのは悉く女の足で、木の葉と思ったのは、女のスカートを拡げてゐるのだった。

 踊り子がよく跳ねる。トーダンスも鮮かだ。踊子の筋肉のしなやかに動くこと! 女の踊子に代って男の踊子が細かいダップを踏む。妖怪のやうに全身をくねらせる。すべてスケールが大きい。

 ダンスの次がジョーク。一組の男女が軽口を戦すころは日本の萬歳と異らないが、オチをいったり、クスグリをいふのが男でなくて女なのは、さすが女の國だけあると思った。しかし英語の素養に乏しい私にはそのジョークが全く判らない。ジョークに次で、ピアノだがジョークをいひ乍ら演奏するのだから日本の滑稽音曲といふところだらう。
 あとは映画――空気の関係か、鮮明に寫る。

 十時、館の外へ出ると、いつの間に降り出したのか、ひどい雨。急いでタクシーに乗る。窓から見る雨に洗はれたシカゴの町は、昼間見た町より美しいと思った。
 YMCAに帰りつくと間もなく激しい雷雨だ。二度ばかりは近所に落ちたと思はれたほど大きい音がした。
久しぶりに涼しく寝る。たった一人で。

    (つづく)