賀川豊彦の畏友・村島帰之(95)−村島「アメリカ紀行」(15)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。


        アメリカ紀行(15)
        カナダからアメリカに入る
        トロント――ニューヨーク――クリブランド

                            村島帰之

  (前承) 
   外人教會の日曜説教
  九 日 

 午前十一時から賀川先生の日曜説教が、クリブランドの外人教会で行はれる。十一時すぎ、カーベナー教会の副牧師オベルンハウスさんが迎ひに来てくれたので、両先生と私とが、二人乗の自動車に重なりあって乗る。
 オべルンハウスさんはその名の如く二階建のやうなトールマンだ。先生と並んでゐると親子のやうだ。

 けふは日曜日なので人通りも少い。店もドラッグストアぐらゐしか開いてはゐない。多くの人たちは、この暑さを避けて湖畔へでも行ってゐるのだらう。街頭では、部厚なサンデーペーパーを売る新聞売子の声のみ、かまびすしい。

 教会はグリーブランド大學の隣接地にあった。例によってパイプオルガンが偉大なる竹垣のやうに聳えてゐる。賀川先生はパウロの信仰を脱き、十字架の伴はない信仰は駄目だといって、日本基督教の先進者(澤山保羅、石井十次氏等)の十字架を引例してアメリカに警告を与へた。

    ヂングル家の招待

 礼拝がすんでからヂングル氏夫妻の昼餐に招かれて行く。折柄雨が降り出して、教会堂前のローンや青葉を濡らし、炎暑離れのした場景を見せてくれた。

 ヂングルさんの令嬢――ㇵイスクールの生徒――がさしかけてくれる小さなパラソルに入れて貰ってカーに急ぐ。
 雨の中の大學や附属病院などを窓から眺めて、とある丘の上の邸宅へ招ぜられる。

 上品なコテージだ。調度も立派だ。
 「アメリカの金持は却って質素な家に住むものですよ」と先生の説明だ。

 食堂が開れる。マダムがまづ母堂を一番に食堂へ伴って行く。そしてわれ等三人と、オベルハウス副牧師親子が、主人公の家族とー人置きに並ぶ。

 料理の中、何といふのか、大きなビーフを主人が切って皿へ盛って配るのに、第一にマダム、次に主賓賀川先生、それから母堂、副牧師の父君といふ順で行ったのも、異郷から来たエトランゼには珍しく見えた。

 マダムの流るる如き会話は聞き取るのに骨が折れた。令嬢もしきりに話す。日本なら十三、四歳の少女が、これほどに人前で話はしまいと思ふ。

 デザートに入った頃、四つ位の男の子が現はれる。可愛い児だ。私は新聞紙でカブトを折ってやると、みんなが可愛い可愛いといって、ローンヘつれて行って寫真などを撮った。

 珍しいお客さんだといふので、方々から続々お客さんが見えて、賀川先生を中心に、支那の話、日本の話、カポネの話まで飛出す。

 さすがアメリカの女性は社交的で話題豊富だ。夫君は黙してゐても、妻君は萬丈の気焔を吐いてゐる。婦主夫従といふのか。尤も金持の家から嫁いで来た妻君は余計出しゃばるといふが。

 二時が過ぎたので立つ。ヂングルさんの一家四人(主人夫妻。お嬢さんに坊ちゃん)が自動車でオデトリアムまで送ってくれられる。
 車中、私は坊ちゃんに私の名刺で小さなカブトを作ってあげる。お嬢さんはそれを見習って一つ作り上げた。
 「あそこはYWCAよ。日本にもあって?」
 など訊く。ブロークンで答へる。

    YMCA大會閉會式

 オデトリアムではいよいよYMCA國際大會の閉會式だ。モット博士のしっかりした調子の演説が聞えてゐる。

 私は荷物をまとめるためるために中坐した。
 少し疲れた。ベッドにゴロリと横になってゐると、小川先生が帰って来た。ホテルは六時限りでキーを返さぬと翌日分の宿泊料をとられるので一まづ荷物を外へ出す。

 六時.YMCAの最後の御馳走を頂きにオデトリアムヘ行く。モウ人数は三分の一以下に滅ってゐる。
 「若い人たちはみんな帰ったですね」
と給仕人がおわいそをいふ。

 大して愛着を覚えぬ筈の國際大會だが、いよいよ閉會となると、矢張り名残り惜しい心なきを得ない。往来で行きあふ、どこの國の代表かしらぬが「グッドバイ」といって過ぎる。

 十時、ステーションに向ふ。十二時発の汽車だが、早い目に這入って寝台にもぐり込む。珍しく涼しい。寝心地もよい。

    (この号はこれでおわり)