賀川豊彦の畏友・村島帰之(94)−村島「アメリカ紀行」(14)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。


        アメリカ紀行(14)
        カナダからアメリカに入る        トロント――ニューヨーク――クリブランド

                            村島帰之

  (前承) 
  プレス社見學

 七 日
 朝十時、YMCAのトマスさんの案内で、小川先生と一緒にクリープランドプレスを見に行く。總務のロブさんが編輯室を見せてくれた。人数が少いのと、姦しい電話が聞えないのと、莫迦に物静さを覚えさせた。一体に、働いてゐる人も少いらしい。

 この新聞はサンデー・ペーパーもない朝刊紙だ。記者志願者の多い事(六人に對し三百人もあった)。此會運動は余り險しくなく書かない事。車中訪問などの習慣のない事などを聞く。大して參考にはならない。二人の寫真を撮ってくれた。

 十一時。×xx氏の演説を聞く。基督教信者に抽象論のみをしてゐては世の中はよくならぬ。根本の社會組織にまで考へを及ぼさねば――といふ。日本ならわれ等によっていひ尽くされた議論だが持手だ。アメリカでも、社會から游離した、単なる個人的の信仰だけでは駄目だといふ事が判って来たものと見える。明かに基督教社會主義を主張する者に拍手を送るなどは大出来だ。
 賀川先生は日本では右翼だが、アメリカヘ来れば、左翼だ。面白い事だと思ふ。

   ラヂオ放送

 午後二時から賀川先生のラヂオ放送があるので行って見る。ホテルの十四階にスタヂオがあった。窓を開け放った儘だから、地上の雑音が聞えるが一向平気だ。強い電波が使へるからだらう。アナウンサーは金髪朱唇の婦人と、モウ一人青年。

 先生は先夜の説教と同じ「日本の宗教」について話される。日本のやうに、腰かけてやるのではなく、立ったまま、宙吊りのマイクロホンに向って話すのだ。その前、日本の汽分を作るためとあって、浄瑠璃の蓄音機レコードを放送したのには苦笑させられた。
 ラヂオの聴取料はロハ、放送局は廣告の放送で収益を得るからだ。

 午後三時、ソーン、デーラー社へ行く。
 工場を見せて貰ふ。余り日本のそれと違はない。活字場のない丈けの差だ。色刷機械が盛に動いてゐるのを見て、一寸羨しく思へた。八時間労働、給料は一日七圓ぐらゐ。
 組合に加入してゐるのと最低賃金制の在る関係だ。

 新聞記者の一人と話す。社會運動には殆ど関心を持たぬのも弗の國の記者らしくて、明日YMCA反對のコンミニストのデモがあるが、二、三行書く丈だと話してゐた。それにアプトンシンクレアのプラスチェックを知らないのには驚いた。ノンキな記者さんではある。

 晩餐はロックウエル・アベニューの支那料理を阿部義宗氏から御馳走になる。恰度、そこへ賣笑婦らしい金髪美人が数人這入って来て、盛に焙草をくゆらがし乍ら甲高い声で話てゐる。ここもまた賣笑婦の稼ぎ場の一つなのだらう。
 夜は中國の○○氏と○○氏の講演を聞く。

    社会事業聯盟を訪ふ
 八 日 

 けふも寝坊をして、私独りでレストランヘ行く。そして0000氏の講演を聞いた後、ホテルの前の社會事業聯盟へ行く。クラップ氏からいろんな話を聞く。

 共同募金の始まったのはここで、今日では年々五百萬弗も集って、それぞれ各事業團体へ分配してゐるので、そのために特別の調査機関があり、カードの交換所が作られてある。インチキな事業團体などは、分配金を遠慮会釈なく創って了はれるのだ。

 日本のやうに、赤十字社済生会のやうな官庁を背景にした社會事業が、民間の浄財を浚って了って、一般に私設事業はそのカスを漁らねばならぬやうな状態なのに比べて、アメリカの共同募金制度を羨ましく思った。若しこれを日本で実施したら、インチキな社會事業団体は淘汰されて行って、本当の事業のみが栄えるだらうと思った。

 同じ建物の中に児童局や救療事業の事務所やその購賣組合(日本の社會事業もこれに學ぶ必要がある)ビッグシスター、ビッグブラザー、それから一緒にやるのを好まね猶太人及びカソリックのための特別の機関などもある。ビッグシスターは現在七十六人の母が不良児の保護をしてくれてゐるといふ。ブラザーの方は少し少くて五十七人。
 そんな話を聞いてゐる内に午後になった。

 午後はホテルで日記の整理をしたり、昼寝に過ごす。
 賀川先生は支那の博士などと一緒にけふもラヂオを五分間放送された。
 前日訪問した新聞社が、私の事を紙面にのせてゐる。プレス紙の如きは写真入りで。
 午後七時半から集會が始まる。

     (つづく)