賀川豊彦の畏友・村島帰之(93)−村島「アメリカ紀行」(13)
「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。
アメリカ紀行(13)
カナダからアメリカに入る トロント――ニューヨーク――クリブランド
村島帰之
(前承)
囚人授産場
ついで更に十哩近くカーを飛ばして、囚人の授産場に行く。Worker’s Houseと表札が出てゐる。錠の下してある戸を入れて貰ふと、中央には花や木が美しく繁茂してゐる。その片側に、鶯色のジャケットを着た男が二三百人も整列してゐる。
(此所で思ひ出した事は震災当時、アメリカから多数に送って来た服は、その色合から考へて囚人のものだったのかも知れない。併したとへ囚人用のものでも、寒さを凌ぎ得るものならば、有難く頂戴すべき事はいふ迄もない)
何事かと訊くと、食事に行くところだといふ。われ先と争ふのでもなく、徐ろに順の来るのを待ってゐる。これが悉く囚人なのだ。尤も囚人でも、殺人、傷害で強・窃盗などではなく、妻を虚約したとか、酒を密造したとかいふやうな比較的軽罪の人達で、彼等はみな農業に従事して、その代り一ヶ月十五弗の給料が、留守宅の妻の許へ送られるといふ。
食べさせて貰った上、月三十圓が貰へるなら、日本のルンペンたちは皆、入獄を望むだらう。かうなれば、監獄の自由束縛は只性慾問題位だらう。
更に驚いた事は、斯うして数百の囚人がゐるのに、看守は二人しかゐないで、その他の補助看手はすべて囚人自身だといふ事だ。
私たちを食堂へ案内してビフテキの一片を食べさぜてくれた男も囚人だった。重い口ックの番をしてゐるのも囚人だった。逃亡者は嘗てないといふ。不思議のやうでその実、不思議ではない。
実際、自由を束縛するから、人は余計に自由を望んで逃亡を圖るのだ。
殊に兇暴性や悖徳性の犯罪者でない限り、或る程度の自由は与ヘた方がいいのだ。
ウォーカーハウスの自治制は、確にわが意を得たものであった。
ロイスさんが一人の囚人に「いつ出るんだい」と訊くと、「来年の今月今日だ」といって皆と一緒にドッと笑った。
これが囚人たちの群とは思へぬ朗らかさだ。
養 老 院
ついでに養老院へ行く。建物は古いが割合に整頓してゐる。老人たちはソファーに靠れたり、芝生に憩ふたりしてゐるが、陰惨な気分はない。中に九十四歳の老母がゐて、眼鏡一つかけずに刺繍するのが自慢で、テーブル掛やうの製作品を見せてくれた。
夫婦者の老人を収容してゐる別棟もあった。老いた後、扶養する者がなくて、共に此處に収容されたのだ。院にはチェーカーの土地があって、老人は耕作に従事してゐるが、中には手工をするものもある。
渋澤氏の寄附の書庫もあった。
一体、この養老院は、日本の養老院に比べて、可働年齢の人が多いやうに思った。
この年齢の人たちなら、日本では、大した収入にはならぬまでも手内職でもして、足らぬこころは、親戚の人たちに扶助して貰って生活するのだ。
家族制度の國と、個人主義の國の相違だ。
私は小川先生を介して質問して貰った。
それは「相当な家の者で、息子たちが親をその家で扶養するのが煩しく、費用を出して親を養老院に委托してゐるものはないか」といふ事だった。
それに對し、院長の答へは「ない事はないが少数だ」といふ事だった。
これで見れば、さうした者も少しはあるらしい。
アメリカの人間は、少くも老後の生活費だけば貯えて置かねば養老院送りを覚悟せねばならぬ訳だ。
帰り道、サナトリアムの外観だけを見てホテルに帰る。
眠いので、晩の講演も途中で帰る。
今夜からまたホレンデンホテルだ。ダブルベッドに辟易したからだ。此度は八階に移る。一夜三弗半。
(つづく)