賀川豊彦の畏友・村島帰之(92)−村島「アメリカ紀行」(12)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。


        アメリカ紀行(12)        カナダからアメリカに入る
        トロント――ニューヨーク――クリブランド

                    村島帰之

  (前承) 
   YMCA萬國大會
 夜は賀川先生の講演だ。講演前に疲れさせてはならぬので、無理に人の来ない所へ拉致する。実際、先生はみんなから引張凧になって、そのために疲れられるのだ。講演前にしゃべり疲れて、肝腎の演説の時に声を涸らしてはならぬと思って、先生の意志に反したけれど、無理に検束處分にしたわけだった。

 八時集曾が始まった。モット博士は立って、「賀川先生が百般の事柄に亘って造詣が深く、最も廣汎な読書家であるのみならず、同時に氏が実践家であるといふ点に對しては、我らに常に氏の前に忸怩たらざろを得ない」と激賞し、約十五分に亘って永々と紹介した。

 先生は「生ける神」と題し、神を知る方は、自ら他人の犠牲になることだとて、石井十次氏に絡まる挿話などを語り、我らが他の犠牲となる時、そこに神の実在を知るだらうといひ、日本にキリスト教的精紳の這入って来てから、非常なる変革を来した事を述べ、アメリカの離婚率の夥しい増加に對して警告した。非常なるセンセイションだ。

 因みに記すが、アメリカと日本の離婚率は戦前、日本はアメリカの三倍あったのが、一九二九年の調べでは結婚百に對し、日本はわづか一〇・七であるのに反し、アメリカは一六・三といふ率を示してゐるのである。

 之はアメリカの青年が欧洲戦争に出征して悪い事を覚えて来た結果であるといはれてゐる。それにリノ市のやうに、二週間以上その地に滞在してゐるものに離婚の手続きをして、それで市の財源にするやうな都市が出て来ては、離婚率の高まって行くのも当然である。 アメリカの男女問題は確に乱れてゐる。資本主義の末期の必然的所産なのだらう。

 次いで中華民國のKoo氏の流暢な英語での話があって十時閉曾。例によって先生は握手攻め、サイン攻めだ。

    米人の家に泊る
 私と小川先生は今日から、ホテルを出て、Mr. and Mrs. Nichols---1311, West 89th, St.のホームを借りる事となった。家の前後にローンのある型のやうなコテージだ。私たちはその一室のダブルベッドを借りたのだ。

 一つベッドに二人寝るといふ事は苦痛だった。で、私は二時間位は寝つかれずにゐた。涼しい風が窓から忍び寄って来る。カーの音もこない。私はいつの間にか眠りにおちてゐ
た。

   六 日 

 前夜はやはり寝苦しかった。大きなダブルベッドとはいへ、小川さんの寝返りを打たれるのが一々判るのだから堪らない。

 朝七時に起きる。勿論、睡眠不足だ。もっと寝てゐたいが、止むを得ない。小川先生はよく寝られたやうだった。

 家の人達と一緒に朝飯を頂く。歩き出したばかりの児が一人、夫婦は目に入れても痛くないらしい。私達が手を出すと、向ふでも手を出してくる。平和なホームだ。前夜、私達が會議から帰って来た時もコーチで二人っ切りで、ラヂオを聴きながらソファーにもたれてゐる。そして私達を見ると、そこへ迎えて、夫婦でさかんに日本の事を訊いたり、賀川先生の噂を訊いた。

 室はパーラーと、食堂と、寝室と、湯殿と台所と丈けらしく、私達に寝室を提供した結果、夫婦はパーラーのソファーで寝たものと想像される。
朝飯はトーストとフライドエッグスと牛乳とだったが、心から歎迎してくれる様子が嬉しかった。ハズバンドはYMCAの夜學校の機械科の先生だといふ。日本のわれ等のホームに比して、不用品が堆積してゐなくて、簡素でしかも整頓してゐる。

 月賦だらうが、家具丈けはプルライクだ。これも月賦で買ったのだらう、フォードで送ってくれる。フォードは至る所で古いのを売ってゐる。Used Car と書いて、まるで我國で古自転車を売ってゐるのと同じやうに売ってゐるが、下は二十五弗位からあるが二百弗も出せば立派に使用に堪えるのが手に入るらしい。

 聞く所ではニューヨーク辺りには太平洋沿岸で中古を買ひ、それで大陸を横断して来て、ニューヨークで売って了ふのがあるさうだ。さうすると、買った値段の半額で売れるので、結局、高い汽車賃の半額位は節約出来る事になるといふ。

 ホーレンデンホテルに賀川先生を訪ふたがゐない。小川さんがオべリンの奮友などに会って話されるので、私は手持無沙汰になる。それで、小川さんと別れて一人で自由行動をとる。

 オーデトリアムの隣が市廳だが、その後方がエリ湖の港になってゐるので行って見る。

 巨船が桟橋につながってゐる。私はそこの船客待合室でエハガキを買った。スタムプ(切手)は自動式で出て来るやうになってゐた。何にでも人力を機械に代えやうとするのがアメリカだ。

 港に面して大きな野球のスタヂアムがある。夜間も開業出来るやうに、電燈装置がデカデカと作られてゐる。至る所の芝生の樹陰にはルンペンが寝転んでゐる。それがみなちがった人種だ。

 クリーブランドの市民の七割が外国人だといったモット博士の言葉が思ひ出される。
 私もルンペンの一人の積りで、ポケットに手をつっこんで、アスファルトの道を当てもなしにトボトボと歩いた。

 午後は少年審判所のロイスさんの案内で、賀川、小川両先生は大連の勝俣氏と公営社会事業を見に行く。

 ロイスは、もとは此の土地の工場に働いてゐた人で労働争議の張本人をやった事もあるが、その争議をやられた工場の大将の推薦で少年審判所に這入るやうになったのだといふ。元気な人で、小川さんは「大久保彦左」といふ名を奉った。

 先づ最初は州立の精神病院を見た。三五〇エーカーの廣い土地を擁してゐて、廣々してローンに囲まれて瀟洒な建物が点綴してゐる。ローンの樹蔭には狂大達が圓くなって団欒してゐる。絵のやうなシーンだ。傍らを通ると女性犯人の中の燥狂性らしいのが大きな声で喚き立てて、一看護人から、ビ・サイレントといって叱られてゐた。

 戸外の廣々とした所で、のんびりとしてゐれば、精神状態も自ら沈静するといふものだ。只狂人に特有の心理の分離で傍らに騒いでゐるものがゐても隣りの者は知らぬ顔の半平でポカンとしてゐる。

 建物の中は清潔と整頓を旨でしてゐて、日本の狂人病院で嗅ぐやうな悪臭一つしない。
 ファニチュアもみんな堂々たゐもので、ソファーに倚ってゐる連中などは、どこの貴族の家の人かと思ふ程だ。通路の壁にはワシントンその他の画像や風景画を掲げてある。ピアノも置いてあるが、弾いてゐる人の姿は見かけなかった。

 狂人達は、何もせずに、只ポカンと日を送るのである。明日も、来月も。来年も。
患者の部屋は特等らしいのは上等のアパーㇳのやうで、白色で塗られた壁にポロ一つ掛けてはなく、如何なる貴人でも迎えられるやう、患者がらは一週五弗迄は徴するが、二千三百の患者中、これを支払ふ能力のないものが多く、概ねは施療だといふ。治療室の中にも、精神の沈静を圖るため、温浴や掩法を取ってゐる。

 ドクトルの話では、四割は癒るといふ。作業治療もやってゐるがバンクーバー程大規模ではない。

       (つづき)