賀川豊彦の畏友・村島帰之(91)−村島「アメリカ紀行」(11)
「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。
アメリカ紀行(11) カナダからアメリカに入る トロント――ニューヨーク――クリブランド
村島帰之
(前承)
四 日
汽車の中の割合には善く眠った。朝九時まで眠ってゐたのだから。
午後一時過ぎ、クリーブランドに着。自動車で直ぐホレンデン・ホテルヘ行く。堂々九階建の大ホテルだ。一泊四弗五十仙とはさもありなん。
ホテルの客となる
アメリカヘ来て西洋人のホテルへ泊るのは初めてだ。自動車がホテルの前に着くと、宮内省の守衛のやうな服装をした(モット明るい色彩をしてゐることは勿論だ)男がタキシードのドアをあけてくれる。ボーイが直ぐ持物を中へ運び入れる。
賀川先生の部屋はYMCAの方で予約してあったが、私たちのはないので取敢えず、その傍の部屋を取る。大きなダブルベッドが据えられてあって、バスもついてゐる。ラヂオもある。電話は素より。
ダブルベッドに一人寝るのは勿体ないほどで、おかげで楽々と寝る事が出来る。
部屋は八階だ。エレベーターに乗る毎に、「セブン、プリーズ」といはねばならない。
ホテル住まひとなると、一々ドアのキーもかけて行かにばならない。勝手が大分違ふ。
食後、少し午睡する。ニューエルさんの息子さんが見えたといって知らせに来られたので起きる。
夜は八時からYMCA萬國大會の開場式がオーデトルアムのミュージックホテルで催される。ロシア娘たちの合唱の後、××博士が「神と共なる青年の冒険」について語る。
土地の記者が続々来る。むかし、ニューヨークやシカゴ同様、敏活さが乏しい。
「日本の記者のほうが、モツト敏捷だ」
といふと、小川先生が、
「そんな事はない。今に御覧」
といはれる。ニューヨークやシカゴの記者に失望してゐるのに、どうして他により以上の記者が見られるといふのだ。
私は日本人の中の日本人
小川先生が「アメリカ至上主義」をふりかざされるに對し、私は「アメリカが何だ」と、
日本の進んでゐる事を力説して動かない。
それが事毎にさうなんだから面白い。
私はついに日本人の中での日本人だと思ふ。アメリカに對する期待が大きすぎたためか、私はむしろアメリカに幻滅を感じてゐるのは覆ふべからざる事実だ。それは或いは日本が余りにも進んでゐるといふ事になるのかも知れない。
社会事業だってさうだ。小川先生が、
「こんなのは日本にない」と誇り気に云はれるものも、実はちゃんと日本にあるのだ。
私は日本のイミテーションの如何に行き亘ってゐるかに驚いた。
アメリカに對して日本の到底及ばないのは唯「金」だ。若し日本に「金」があったら、もっと善いものを作ってゐるだらう。
しかし、さうだからといって金のないといふ理由で、日本がアメリカに對して遠く及ばぬのだと速断するのも早計だ。金はなくとも金のないだけに、アメリカでやってゐゐ事は大概やってゐることは明かな事実だ。
「こんな立派な、金のかかったものはあるまい」といはれたら一言もないが、
「こんな種類の事業はないだらう」
といはれたら、大概の場合「ある」と答へ得られるのだ。只それが小規模で、見すぼらしいものではあっても……。
日本がアメリカに比し遅れてゐるやうにいふアメリカの讃美者は、実は日本についての認識の足りないことを自ら表白してゐるものではないかと思ふ。
(これは小川先生についていふのではない。小川先生と意見の對立するのは、アメリカについて深き造詣を持つ先生が私に教へてやらうといふ親切心から仰しやって下さるに對し、一方私が比較的日本についての知識を多く持ってゐて、遠慮なくお返事をする結果である。私は此度の旅行で、どれほど小川先生に負ふところが多かったか、言葉では尽くせない。私は心からの感謝と敬意とを小川先生に對し持つものである)
十一時臥床。前方が電車道になってゐて、深夜まで喧しいカーの音がするので眠りを妨げられたが、それでも、やがて、眠りに落ちた。
この日、私は新聞で人見絹枝氏の死を知って憂鬱になった。そしてそのことを黒田乙吉氏へ手紙を書く。
五 日
目を覚ましたら八時半だ。YMCAの朝飯にモウ間に合はない。隣室の小川先生を訪ふと、六時から起きて賀川先生の今夜の講演のプリントを作ってゐるので未だ朝飯前だといふ。
で、待ってゐると、一時間経っても二時間経っても小川先生の手があかない。仕方がないので、空腹を忘れるために、手紙を書いて見たが、既に三時間以上が経過し、腹がぺコペコなので、一人で階下のドラッグストアーヘ行ってアイスクリームを食べ一時凌ぎをする。
一人買物に
斯う書くと、私が立派にドラッグストアーの女賣子と會話をしてゐるやうに取る読者もあらうが、単に「アイスクリーム」をくれといふ事丈けでも、一度では通じない。アイスクリームの発音が本当ではないために、少くとも二度は繰り返さねばならないのだ。
アイスクリームはまだいいいが、オレンヂジュースは、しばしばオレンヂェールと間違へられる。発音が何方にでも取れるので、安い方をくれるのだ。日本でならった発音は実際ダメだ。が、併し、そのダメな発音でも繰返してゐれば、先方で大体察してくれるから通じる。
ついでに一人で買物に出掛ける。近所のメイ・カムパニイといふ百貨店へ行ってワイシャツを買ひ、近所の靴店で靴をも買ふ。靴店では寸法を合さねばならなかったが、靴屋の先生、なかなかお世辞もので「アメリカが好きか」と仰やる。「好きだとも、日本の次に」と答へると、先生大喜びだ。
不景気で、靴なども正札をなほして賣ってゐる。Price Fallと大書してある。
私の買ったオックスフォードは、七弗と書いた正札を赤字で消して、四弗五十仙と大書してあったのをショーウィンド見付けて、それを買ったのだった。
ブロークンでも立派に通るから面白い。オーデトリアムヘ行くと、社交室の一隅に日本人が集ってゐる。賀川先生がそこへ見えて、
「此所は日本人村だねえ」といふ。
(つづく)