賀川豊彦の畏友・村島帰之(90)−村島「アメリカ紀行」(10)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。


        アメリカ紀行(10)
        カナダからアメリカに入る        トロント――ニューヨーク――クリブランド

                           村島帰之

  (前承) 
   三 日
 旅に慣れて来たのか、よく眠る。今朝も目を覚ましたのは九時半。気の毒に今井さんはまだ朝飯を食べずに待ってゐてくれられた。

 十時、一緒に前日と同じカフヱーヘ行く。
 「朝飯ですか」と訊く。
 可笑しな事を聞くものだ。きまってゐるぢゃないかと思ったが、考へて見るともう十時だ。朝飯には余りにおそいから聞くのだった。

 アメリカに来て、食事を摂る事の如何に便利であり、簡単であるかに驚いた。カフヱーといっても日本のやうなものではなく、スタンドにかじり付いて高い椅子の上に腰かけて食べればチップも要らぬ、簡便なものだ。カフヱーテリアに別に説いたやうな自前サーヴィスで、これ又安値に上る。

 更に、禁酒法施行以前に各町角には必ず酒場があったのだが、法施行後はそれが全部ドラッグストアに変わって、そこでは茶や化粧品を売る以外に、必ずスタンドを設けて、オレンジジュースやアイスクリームなどの清涼飲料を供給してゐる。空気の乾燥してゐるアメリカでは、われ等エトランゼは日に二、三度は必ず此處へ這入って喉を潤さねば堪らないのだ。

 私はアメリカヘ来て新たに好きになったのは、カンタローク(圓いメロン)とそしてオレンヂジュース(オレンヂをそのまゝ器械で押しつぶしたものだ)だ。

 カフヱーから帰って、先生に何か予定でもありませぬかと思って、念のためインターナショナルハウスヘ電話をかけて貰ふと、賀川先生が出て見えて、別に予定もないとの話。
 そこで、午前中は休息といふ事にして、今井さんの研究の概要などを聞かせて貰ふ。

 午餐は今井さんが買物に出掛けて、自分でクッキングをして下さる。一緒に宿の台所で食べる。外で食べれば、例ヘカフヱーテリアでも一人前五拾銭内外は取られるのだから最も経済的だ。愉快な経験だ。

 午後、賀川先生は叉もや博物館行き。「僕は博物館病にかかってゐるのだ」と電話での話。私は日記が沢山たまってゐるので、博物館行きを止めて罐詰る。

    ダウンタウン見物
 五時過ぎ、今井さんに案内されてダウンタウン見物に出掛ける。リバーサイドを二階立てのバスに乗って走る。
今日は二、三日来の涼味(ニューヨークとしては)の後を受けて莫迦に蒸し暑いので、電車も階上が大入りだ。片側の川面を辿って来る風が涼しい。

 リバーサイドは、ハドソン河に沿った一帯の名称で、河に沿ってドライヴウェーが作られてゐるのだ。そしてそのドライブウェーに面して、アパートメント・オン・パレードだ。

 それがいづれも八階から十五、六階位の建物で五室から十室位を貸すのだが、その價は
月に二千弗もするのがあるといふ事だ。

 かうして高層建築が建つのも、ニューヨークといふ土地が岩石によって成ってゐるからだ。建築の基礎工事には必ずダイナマイトを必要とするといふのも畢竟此のためだ。

 聞く所では、ニューヨークには松井といふ優秀な建築技師がゐて、米の技師が匙を投げた建築を、立派に修正して建て上げたとかで、エンパイアー・ステートビルも此の人が関係してゐる事は前に記した通りだ。

 アパートらしい建物がまだ続々建ちつつある。概して新しいものは昧もソッケもない。唯線と線とを結びつけたといふだけのものが多い。
 「ニューヨークは汚くなった」
 と先生ら言はれた事が首肯される。

 唯芸術味の豊かなのは教会堂と官公街だ。
 特に教會堂の美しさは、旅行者の目を聳立たしめるものがある。

 百貨店も大きい。メーシー、ワナメーカーなどがそれだ。尤も、アパートメントは、外観は昧のない大厦高楼でも、中へ這入ると、宮殿を思はせるやうな立派なものが多いといふ事だ。そこで、斯うしたブルのアパートは、土曜日の夜から月曜へかけては全くの空家だ。いふまでもなく、郊外の別荘へ出掛けて行くのだ。

 アパート生活の悲哀は、別荘にも行けずに年がら年中、日の目も指さぬ一室のみに閉ぢ寵ってゐる連中のみの味ふ所なのだ。

 ブロードウェーに灯が這入り出した。映画館のイルミネーションが盛り場らしい雰囲気をかもし出してゐる。急に階上の人達が下り始める。仰いで見ると、夕立雲が、スカイラインの上を黒々と被ふてゐるのだ。

 私達も余りに時間を取り過ぎた気がしたので下りる事とした。地上のアスフアルトヘ下りると一陣の旋風。思はず眼を瞑って了った。そして急いでタクシーを呼んで、インターナショナルハウスヘ走らせる。
 「雨が来たら、窓を閉めて下さい」
 運蜻手が顧みてさういふ。

 アメリカのタクシーは、何れもメートルで最初が拾五銭で、四分の一哩毎に五銭を増して行くのだが、そのメートルの標示器に、運転手の寫真と番号を乗客の方に向けて見せるやうにしてあるのも面白いと思ふ。

 勿論、タクシーは、日本のやうに街から街へ流して歩るくことを許されない。一定の駐車場にゐなければならない。われ等の至る所街頭に No Parkingの文字を見るのは、駐車を許さぬといふのだ。
 そして叉三仙、五仙でカーの預り所を至る所に見受ける。

 雨だ。珍らしい夕立だ。
 併し、イソターナジョナルハウス迄一弗二十五仙分丈け走った時には雨は霽でゐた。

 八時十五分から先生の日本人に對する講演。ニューヨークには千五百(或は三千人ともいふ)在留民がゐるが、今夕集ったのは二百人足らず。

 先生は日本の現状を語られる。そして日本の農民が精神的要素を保ってゐる間、特に日本の小學教師が赤化しない限り、日本は決して、左傾しないといはれる。

 講演後、ホーリークラブの有力なメンバーである松本さん夫妻や安川さん夫妻とお目に掛る。松本夫人は「車中は暑いでせうから」と、南画を書いた支那風の扇子を下さる。

    クリーブランド

 十一時の汽車でセントラルステーションを出発。今井さんや紐育教會のxxさん、それから賀川先生の最も忠実な愛読者である堀井さんのお見送りを受けて。

 プラットホームヘは見送り人を入れない。
 荷物が重いので閉口してゐたら、小川先生が取ってくれられる。私は日本を出る時から荷物を出来る丈け軽くと心掛けて、両手で優に携えられる程のものを二つ丈け持って来たが、更にニューヨークでその一つ丈けを、此の次にニューヨークに来る日まで、今井さんの室に預けて置く事にした。

 が、それでも、何物は重かった。重い荷物を持つ事を堅く禁ぜられてゐる自分に、それが旅行での一番の悩みだった。
 賀川先生まてが自分手に荷物を持って行かれるのに、まさか私丈けが赤帽を頼むわけにけ行かぬのだから。

 それを知った賀川先生や小川先生や今井さんが、私の荷物を持って下さった。私はほんとうに済まぬ事だと思ひ乍ら、つひその言葉に甘えるのである。

 私の荷物はまだ多過ぎた。拾銭均一店へ行けば、必で買へる物迄、ゴタゴタと持って来た事を悔いてゐる。今後アメリカヘ来る人には、思ひ切って何も持たずに来る事をすすめ度いと思ふ。


     クリーブランド
 私はニューヨークへは、モウ一度引っ返して来る予定なので、ニューヨークの街へは暫くの別れだった。

     (つづく)