賀川豊彦の畏友・村島帰之(89)−村島「アメリカ紀行」(9)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)へ寄稿の続きです。


        アメリカ紀行(9)
        カナダからアメリカに入る        トロント――ニューヨーク――クリブランド

                            村島帰之

  (前承) 
   ニューヨーク博物館

 午後二時、賀川、小川先生が私の宿へ見えた。
 「よい室だナア」
とほめられゐ。

 一緒にタクシーを走らせてニューヨーク博物館へ行く。

 「此處は僕のなつかしい故郷だ。苦學時代、此処へ何百辺通ったことか」
と賀川先生が泌々と述懐される。

 入口の所にある隕石は世界一だといふ。大阪城の石程あらう。別にある隕石の横断面の模様を面白く見る。

 先生は例によって三百萬年前に棲息したダイノサールなどの研究をされる。私達人間の数十倍の大きな動物が横行してゐた世界を偲ぶ事はむしろナンセンスな気持がする。

 アメリカの各都市には、或は大学には、至る所に博物館がある。日本のやうに一部富豪があたら名宝をその倉庫内に死蔵してゐるのとは大分趣きが違ふ。アメリカの少年たちは幼時から此處に出入りして、活きた教育を受ける事が出来るし、アメリカにゐる外人はこれによって米國化される事が容易に出来るのだ。
 アメリカの博物館はこれらの点に貢献してゐる所が甚だ多いと思ふ。

    ヘンリー街の貧民窟

 博物館を出たのは既に四時、高架エルに乗って、ヘンリーストリートの貧民窟街へ行く。

 掃く事も稀と見えて街路一面の紙屑だ。各アパートの入口や軒先には、日の目を憧れて暗黒の部屋から逃れて来た人々が涼を納れてゐる。ジャッキー・クーガン演ずる所の「キッド」のやうな破れたズボンをはいた少年の幾組かゞ、中央の路面でキャッチボールをやってゐる。
 それを二階や三階の窓から見てゐる印度人やユダヤ人のしなびた顔!
「貸室」の貼札も淋しい。

 ヘンリーストリート、セツルメントに立ち寄る。地下室のやうな、暗いじめじめした家だ。此處に貧困者の家庭で病人の出来た場合、看護婦を送るので有名なセツルメントだが、一日に此處丈けで二十二件から二十五件の派出をしてゐるといふ。

 私達の訪れたセツルメントはその本部で、他のスラム地区にはそれぞれ出張所があって、その地区の必要に對し遅滞なく派出する事になってゐるのだといふ。看護婦の携帯して行く鞄などを見せて貰ふ。

 モウ集會の時刻の六時に近い。急いでそこを出て、サブに乗って、十六哩を急行で走る。十六哩乗っても五仙だ。こユーヨークは安く生活しやうとすれば出来る所だと思ふ。サブは早くてよいが、暑いのには參ゐ。勿論、煽風器は廻ってゐるが、暑い空気の逃げ場所もなく、冷風の入って来る所もないのだから、唯徒らに熱風をカキ廻してゐるに過ぎない。黒人の沢山に乗ってゐるのが目につく。

    インターナシヨナルハウス

 インターナショナルㇵウスでは、モウ食事が始ってゐた。食後、賀川先生は英語で、協同組合運動に基礎を置いた國際的経済的平和を提唱し、日本人の丈の低いのも、若しカナダが現に供超で河へ流してゐる牛乳を、組合を介して安く日本へ輸出してくれたら、モット丈が高くなるだらうと、諧謔して一同の拍手を博した。

 八時十五分から公開講演。聴衆は満堂一杯。先生は宗教の特質を分類して話される。
 「私は建物の高いニューヨークの文化を尊敬しない、それは人間の墓場にしか過ぎない」といって機械的文明に陥ちて行く都市文明を痛罵し、神に依る愛の実行を叫ばれた。

 九時半、演説を終へたが、握手を求めて来るものが引きもきらない。
 十時、軽い飲物を頂いて、十一時、宿に引き取る。
 眠いので風呂に這入らず眠る。

      (つづく)