賀川豊彦の畏友・村島帰之(98)−村島「アメリカ巡礼」(3)

 「雲の柱」昭和7年1月号(第11巻第1号)への寄稿の続きです。


          アメリカ紀行(3)     
                            村島帰之


  (承前)
   十三日
 午前七時半、島津さんのお宅へ朝飯によばれる。島津さんのところへ持込んで来るいろんな事件の話を訊く。

 邦人のコックで欧洲戦乱に米國軍人として出征した男に年金が下ったが、本人に渡してはどうなるか判らぬといふので、郵便局ではわざわざ島津さんに手渡方を頼んで来た。それで島津さんがその男を訪れて行くと、別に白人の女がゐて、その金が来たら二人結婚するつもりだと物語った。
それから間もなくその男がやって来て、女とー緒になったが、巧く行かぬので別れた。金も皆使って了って、おまけに「レストラントを出たので失業してゐるからYMCAにでも使ってくれ」といって来たといふやうな話。

 そこに在留邦人の一面が窺れるやうな気がした。賭博と女に生活の意義を見出してゐる彼等を軽蔑するよりは同情したい。

 食後先生は、郊外のマッコーミック神學校へ講演に、私は島津さんにつれられてパルモアハウスに林伯を訪ね、荷物のお手傅などして三人、エルで感化院を見に行く。

 エルの上から瞰下したシカゴの場末は何の事はない、戦争に荒らされたペルジュームの町か、十八世紀の名画に出て来る破れ家のスナップだ。殊にそれが煤でよごれて黒くなってゐるのを見ると、そこへ近づいた處で手足が黒くなるやうな感がする。
 シカゴは大部分がきたない街だなアと沁々思ふ。

 エルの絡点で降りて、大森といった感じのする郊外の、小きれいなコテージのある間を六七丁も行くと感化院に行きついた。
 Chicago Parental Schoo1 と記した門から這入ると、美しい建物が五つほど。

 校長のコートレー女史の案内で院内を見る。五つの建物はそれぞれ家庭になってゐて、夫婦の職員が世話をしてゐるのだが、その五つが地下道で一つに統一されてゐるなどは金のかゝったものだ。

 創立以来二十八年を経てゐて、現在二百名の院児を収容してゐるが、交替で炊事の世話もする。そして多くの時間は農業に従事させてゐるので七十エーカーの農場があった。チャペルもSSもあった。一週二回は健康診断もするといふ。別に逃亡を防ぐやうな設備はしてゐない。これは日本の感化院も同じ事だ。

 感化院を出て三人食事を共にし、エルに乗る。暫く行くと、 Dameといふステーションがあった。Dameはドイツ語で女の事だ。
 そこで林伯は、「ドイツでは女便所にはDameと大書してあるのが常だから、ここは女便所という処だよ」と笑って、更に諧謔を一つ「或男が便所へ行った處が、ダーメと書いてある。これはダメかと思って別の方へ行くと、ヘーレン(男便所)と書いてある。ナアーンだ、此處も矢張りヘーレンのかといって帰って来たってさ。」

 エルは旺んに車内でエルの宣傅をしてゐる。その廣告の文旬が善い。即ち、
 5511 trains daily on the “L”, more convenient than any automobile.

 私だけは二十六丁目で下車して、グランドパークに来てゐる米國一といはれるサーカスを見に行く。
 巾一丁、縦五丁もあらうかといふ大天幕に下には、AからZまでの指定席をしつらへ、その一つ一つに三百人はゐるだらうから、大衆席を合せれば優に一萬人以上を収容してゐるに違ひない。(入場料七拾五仙、指定席七拾五仙)

 舞台は六か所ほど並べて作ってあって、そこで同時に、同じ芸当が演ぜられるのだから、あっちを見たり、こつちを見たり、忙しい事だ。
それに舞台の周團をめぐるトラックには、また別な曲乗や仮装行列などが次から次ヘと行はれるので忙しい事ったらない。男女の曲馬を始め、綱渡り、ブランコ等々いづれも日本の軽業を更に大規模に行ったもので、殆どのべつ幕なしに演じて行く。

 最後は人間大砲で、砲声一発、人間が宙に高く飛んで出た。私は大砲の直ぐ傍にゐたので耳が痛かった。
 砲弾代りになって砲身の中へ這入って行く時、砲弾男は私たちの方へ向って手を振ったが、何だか犠牲になって行くものゝやうな気がして可哀さうな気がした。

 シカゴには屹度夏季を利用してRaviniaラビニアといふ、ニューヨークのメトロポリタンに次ぐ大オペラが来てゐるとの事だったが、つひに行く機会を逸した。
此のオペラは、菓子賣から成功した金持が、一興行五拾萬弗位の損を見越して開演するものだといふ。夏は値段も安くし、且つオペラだからといって礼装せずに入場出来るといふ事だ。入場料に公衆の入場料が二拾五仙とレザーブ席が三弗だ。

 先生はこの日も午後四時からシカゴ大學で三回目の講演をされたが、終始、感動を与へて、聴衆はクライマックスの處では震え上ったやうだった――と帰って来た小川先生の話し。

 午後七時、ユニテリアン教會における軍備反對演説曾へ行く。英米人の後を承けて先生は立たれた。
 「日本人は戦争を好まない。今日までの戦も常に防禦のための戦だ。のみならず、戦ひのために益するのは二三の財閥だけで、民衆に塗炭の苦しみに悩んでゐる。日本國民は平和を望む。アメリカは日本の物資の消費地だ。何で日本がアメリカと戦はうか。
 われ等は経済的平和を要求する。各國が経済的協同組織を持って相互に交易すれば、戦は防遏する事が出来やう」
と叫ばれた。

 十一時、汽車に乗る。デトロイトに向ふためだ。発車前、寝台に這入る。汽車はわれ等が眠りに落ちた後、十二時すぎ、動き出した。

      (つづく)