賀川豊彦の畏友・村島帰之(99)−村島「アメリカ紀行」(4)

 「雲の柱」昭和7年1月号(第11巻第1号)への寄稿の続きです。


          アメリカ紀行(4)     
                           村島帰之

  (承前)
   デトロイト

 十四日 

 朝七時にデトロイトについた。
 小川先生のオべリン時代の學友ピアースさんが自動車を持って迎ひに来てくれられる。
 先生の講演は電報の行違ひのため、今夜やる事が出来なくなったので、已むを得ず一日を観察に費す事になった。
 先生はいつも「僕は見物にアメリカに来たのじゃない。」といって居られる。かうして行違ひからとはいへ、丸一日を観察に費される事は先生の意に反する處だ。

 デトロイトは小さくまとまった町だ。「遅く開けた町だからだらう。フォードによって始めて繁盛した街だからね」と先生が説明される。

 町を離れてデアポンの町へ這入ると、そこにはフォードの自動車工場が遠望される。
 まづ事務所へ立寄って視察の手続きをして、見物用の同社の自動車(バス)で工場へ運ばれる。一日に五千人位の見物人が来るといふので専門の案内人がついてゐる。私たちについてくれたのはフォードの幼友達てジョンソンといふ老人で、特別にわれ等四人だけを案内してくれた。

 工場の前には職工たちの乗って来た自動車がパッキングしてあるが、それが延々として五六丁に上ってゐるから驚く。
 工場は千百エーカーの廣さを持ってゐて、四千人からの労働者が働いてゐるが、初任日給七弗で一週五日労働、一日八時間といふ労働條件だ。

 此頃は不景気なので大分失業者も出してゐるらしいが、失業者にも一週二日づつは仕事を与へて最低の生活費だけは得させてゐるといふ。

 工場へ入って見ると、例のカーレントシステムで、仕事は水の流れのやうに順次運ばれて行って、停滞したり、逆戻りさせるといふ事がない。それで工場の長さは四千呎の長きに及んでゐる。

 出来上りの材料はそれぞれ自動式の鎖によって、索道の仕掛で仕上部へ運ばれて来る。それを一つ一つ順次に組立てて行くのだが、職工を働かせては疲労させるといふので、彼等の彳立してゐる場所が工程の進行と同一速度で動く仕掛けとなってゐる。

 その仕掛けのない部分は、車輪のついたイザリの車のやうなものに尻を下ろし乍ら、工程の進行するにつれてその車に腰かけた儘、それと併行して行くやうにしてある。

 大きい材料――例へば自動車の箱や車の覆ひなどは天井叉は地下からそこへ運ぶやうにしてあって、職工がその運搬のために時間と労力と精神を労することのないやうにしてあるのは感心させられた。

 照明は青のネオンサインを使ふてゐた。また工場の塵埃及び熱を防ぐためにフレッシュ・エアがたへず工場のペープメントに吹きつけてゐた。
 「職工がみんな明るい顔をしてゐるでせう」
とピアースさんがいふ。
 「人が少いね」と先生が機械化された労力に 驚かれる。
 自動車は一分間に二台の割合で出来上って、運転手さんが試乗してゐる。

 ついでにガラス工場を見る。板ガラスが、紙を作るかのやうに流れ出て来る。ガラスはセルロイドで二枚合ぜたやうになってゐて、石で打ってもヒビが行くだけで破れないといって、一々石で破って見せる。

 工場を出て、事務所に帰り、そこの三階のカフェーテリアで午餐を認め、さらにピアースさんの自動車(新しい自動車を見て来た目に、如何にその自動車のきたない事よ、だが、そこに虚飾を避ける謹巌なビアースさんの人格が偲ばれる。)で、数哩離れたグリーン・フィールドヘ行く。

 ここはアメリカ建國当時のパイオニアたちの部落を移して来たもので、それにエヂソンの研究室をも併設して、活きた米國博物館を現出させてゐるのだ。勿論フォードの作ったもので、彼の夫人の記念にその生れた土地を選んだのだといふ。

 ダリーンランドの中心点には公共的建物があった。チャペルは煉瓦作りの本館と木造の白壁の塔とからなってゐる。先生は直線派といふのだと説明された。

 内部に這入ると、白塗の椅子が敷十脚並べてあって、正面の教壇には、粗末なテーブルとオルガンが置かれ、窓もガラスだけでステンドグラスなどはない。中央の天井から下ったシャンデリアも、白いガラスのみの質素なものだ。

 折柄、タワーベルが嗚る。それは独立戦争の際、英軍の襲来を知らせたといふ由来附の鐘だ。
 チャペルの隅の一つの椅子に腰を下してゐると、自分たちが、今しもメーフラワー号で上陸して来たパイオニアになったやうな気持ちになって、厳粛な気がするのだった。

 教會の外に法廷もあった。木造の粗末な堀立小屋だが、その法廷で、リンカーンが弁護士として弁論をしたのだと訊くと、敬虔な心持がする。暖炉の薪が燃えてゐるが、これは昨年フーヴァ―大統領が来てつけたのをその儘消さずにゐるのだといふ。

 小學校は煉瓦造りの小ぢんまりとした且つシックリした建物で、二人宛の机が十五並んでゐたが、私と小川先生とが腰かけた最後部の一つの机が、小學生フォードがゐたといふ。

 さうして説明を案内人がすると、みんなが一斉に私たちの方を振りかへって、そこに遇然腰を下ろした二人の東洋人の顔を見た。

 机の片隅にはHFといふ文字が彫ってあった。少年フォードが小刀でほったものだ。私はその彫った箇所へ紙の端をのせて鉛筆で転寫した。イン(ホテル)もあった。台所のストーブには鍋がかゝってゐて、その上には玉蜀黍やアップルの乾したものが掛ってゐた。
 寫真店や郵便局や公会堂もあった。すべてが質素なものだ。
 「今のものよりも此の方がいいね」といって、先生はそのシンプルな處を激賞される。

 最後にエヂソンが電燈や蓄音機を発明した研究所を見る。階下はモーターなどがあって、階上が薬品棚で周回を取巻き、中央に試験台をおいた大廣間だ。
 エヂソンの助手をしてゐたといふ老人が一々説明してくれる。エヂソンが蓄音機を作る時に使用したオルガンで一人の婦人が讃美歌を弾いた。一緒にゐた會衆が一緒に合唱した。
 私は身の引きしまるやうな感激に襲はれた。

 みんな去った後で、私たち四人がなほ踏止って老人と話し會った。エヂソンは研究に夢中になると、殆ど寝なかった。そして疲れると、このテーブルの上へゴロリと寝たんだと説明した。

 機械が声を出すといって世人を驚かした最初の蓄音機――それは如何にエヂソンの熱心な息がかったであろう――を老人が吹込んで見せてくれる。圓筒が回転して鍚板に筋のついて行くといふ簡単なものだが、それが直くまた声になって反復した。

 エヂソンは此の研究室が、ここへ移されてから一度視察に来て「九分九厘までその儘だ。唯一分違ふといふのは、床板が美しくなってゐる点だけだ」といったといふ粗末な、たとへば日本の田舎の村役場のやうなものだが、これが世界に光明を与ヘ、声を残させた発明がなされたところなのだ。

 私たちは立ち去ゐのが惜しい気がして幾度かその辺を歩いて見た。
 研究所の外には鉄道が通ってゐたが、そこにあゐ赤塗の駅は、曾てエデソンが駅夫をしてゐて、朋輩にいぢめられた駅を此處に移して来たものだといふ。
 詳しい事は、私の長男健一が、幼年クラブを読んで知ってゐる。日本へ帰ったら彼からモウ一度聞かせて貰はうと思ふ。

      (つづく)