賀川豊彦の畏友・村島帰之(81)−村島「アメリカ紀行」(1)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)に寄稿した作品を取り出して置きます。


      アメリカ紀行(1)
      カナダからアメリカに入る
      トロント――ニューヨーク――クリブランド
                          村島帰之

   ト ロ ン ト

 七月二十八日
 朝八時。いよいよ汽車はカナダのトロント駅についた。いふまでもなく此處に開かれる基督教青年会萬國大會に出席のためである。先生は日本代表であると同時に、特別講師として講演されるのだ。萬國同盟会長で元日本にゐた事のあるヘルプ氏がモット博士の命で出迎へに来てくれてゐる。

 早速、自動車でY・M・C・A萬國大会の会場の方へ走る。
 街路樹の美しい町だ。十九世紀のガッチリした赤煉瓦のハウスが並んでゐて、その並木道の中をドライブしてゐると、自分たちが十九世紀の小説中の人物にでもなったやうな心持がする。

 街路樹は市が管理してゐて、蟲がついたりすると、電話をかければ市の公園課から人が来て蟲退治をしてくれると云ふ。それほどの熱心さがなければ、これだけの美観は得られない訳だ。

 萬國大会といふ大きな布の看板の出てゐるトロント大学ウイックリッフのホール(大學寄宿舎)に着く。既に各國の代表者は前日から着いてゐて、世界の各人種の博覧会の観がある。

 日本からの代表者は、私たちを加へて四十名、賀川先生は「行李を解く前に祈りませう」と言って、小川、村島と三人で祈る。

 賀川先生は早速、モット博士の處へ行かれる。そして、帰って来ての話に、賀川先生に対する各大學その他からの招待状が積んで山をなす有様だが、既にスケジュールが一杯なので断ってくれたとの事だと。

 招聘大學の中には、コロンビア、コロネルプラウン、プリンストン、ハートホード、ワシントン、ミネソタの諸大學を始めとして夥しい数に上って、若し之等の招聘に一一応じてゐれば、先生は少くとも二年間は滞在してゐなければなゐまいといふ。素晴しい人気だ。

 またカナダでは、折角トロントまで来てゐながらアメリカで許り講演して、カナダではわづかバンクーバートロントの二ヶ所に過ぎないのはあんまりだと言って苦情をいふ向もあるさうな。

 先生の「愛の科學」は英訳されて既に数千部を売ったといわれる。人々は常に先生とガンヂーを対照しゐるやうだ。Y・M・C・Aの機関紙には「われらは東洋から學ぶ」と題して先生などのことを書いてゐた。

 新聞記者がインタービューに来る。あんまり突込んで質問して来ないのは物足りない気がした。先生は例によって基督者のインターナショナル組織と協同組合運動の必要を力説される。そして日本の基督者の真摯な事を説いて、大毎が宗教欄を持ってゐることなどを吹聴された。

 トロントはシカゴと同じやうに、一時間、時計を進ませて、それだけ働く時間を多くしてゐるので、汽車中一時間進ませた時計を更に一時間進ませる。

 食事は別のホールで各國人が入交ってする。食後、休憩してゐると、モット博士が見えた。賀川先生の紹介で握手をする。怖しい濱ロさんのやうな顔をした人だが、一個の大人格であることは、その長く前へ突出た一文字のにも窺はれる。

 長野の善光寺の附近で久しく傅道してゐられるノルマンさんにも會ふ。
「私はノルマンでなく門番です」
と流調な日本語で洒落をいふ好老人だ。

 賀川先生の話では、長野で「ノルマンさんといふ酉洋人はどこにゐる」と訊くと、小児たちは「酉洋人と違ふ。ノルマンさんだ」と修正するといふ。親しみの深い老人だ。

 午後は各種の討議があるが、私は疲れてゐるので、充てがはれた自分の部屋で寝るとにする。六畳位の部屋に、旧式のベッド、鏡台とテープルがあるだけで、飾り一つない簡素なものだ。これが神學生の部屋なのである。新しい學校の寄宿舎になると、學生の部屋がその富の程度で二室、三室も取ってゐるのがあるといふが、神學生の部屋としては、むしろ、かうした質素なのが好ましいと思った。ベットのバネもなかば破損してゐるやうな物だ。だが、私は喜んでそのベッドに横になった。

 午睡後、トロント大學の神學校に在學中の前川清兄の案内で大學を見て廻る。おそろしく体育の設備の完全してゐるのには驚いた。地下室はプールになってゐて、数十名の大學生が裸体−―真の裸体で横行潤歩してゐるは、われ等の目には異様に映った。

 「前をかくしてゐると性病患者のやうに思はれるんですよ」と前川兄が説明してくれる。 
プールの水は飽く迄澄んでゐて、白い膚のアメリカの青年が、碧みがかったその水を勢ひよく蹴る。
 同行した布畦の安村さんは、シャワーにかかった。

 もう一方の地下室には劇場があって、校外及び校内の劇團の試演があると云ふ。
 外は美しいローンだ。ゴジンク式の美しい記念塔では、タワーのチャイムが讃美歌を嗚らす。夕飯は學生の大食堂で喰べる。四、五百人は這入るだらう。向ふ三軒、両隣の外人とも、片言交りで話す。

 夜は講演があるといふので、ドームの美しいホールヘ行くと、講演は既にすんで、映画 「カナダ」の映寫と、黒人の讃美歌合唱を聞いた。終わって、三人、ローンに寝ころび乍ら宗教談をする。九時だといふのに、白光が射して未だ明るい。

 「モウ少し北方へ行くとオーロラが見えるんだけど」と先生がいふ。
 賀川先生は至るところで引張凧で、明日の講演の準備も全く出来ない始末だ。

 今井よね子さんから「今夜十一時、トロントに着く」といふ電報が入ったので、三人で十時、出迎へに行く。
 ダウンタウンも、さすが夜更けだけに静まり返ってゐる。停車場前も、少しの雑沓もなく、駅前の十数軒の何とかいふ百貨店のタワーが反射電燈で白く浮出てゐるのも、トロントらしい落着を見せてゐた。
 
 駅について聞いて見ると、今井さんの到着は十一時は十一時でも、スタンダードタイムの十一時なので、トロント時間の十二時すぎだ。で、翌日の賀川先生の講演の事も考へねばならねので、一まづ帰ることにする。

 途中、ドラッグストアヘ這入ってアイスクリームを食し、本屋で雑誌を見る。映画難誌にあらざれば探偵雑誌だ。

 帰りの自動車の運転手は元気者で「日本は戦争に強い國として知ってゐる」と話す。小川先生はムキになって、日本が好戦國でないといふことを話すと、急に黙りこくって了った。戦争の好きな男なのかも知れない。

 十一時半眠りにつく。夜中アスファルトの路をか敲くヒズメの音が頻りに聞える。それに牧場へ急ぐ牛乳馬車だといふ事が、翌朝になって始めて判った。

      (つづく)