賀川豊彦の畏友・村島帰之(82)−村島「アメリカ紀行」(2)
「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。
アメリカ紀行(2) カナダからアメリカに入る
トロント――ニューヨーク――クリブランド
村島帰之
(前承)
二十九日
賀川先生が提唱して、朝七時から早天礼拝を始めて居られるのに出席しなかったが、眼を覚ますと既に八時だ。やっとの事で朝飯の間に合ふ。
けふは時間が遅かったので私独りぼっちだ。隣りは布畦とアメリカ。ブロークンで話す。布畦の代表は首から黄や青の花輸のやうな首飾を掛けてゐる。出発の時送られたものを後生大事と掛けてゐるのだ。スコットランド代表は、女のやうなスカートをはいてゐる。
九時からホールの礼拝に出る。祈って歌って説教をするのが礼拝だと思ってゐるわれ等には、最初から朗読一点張りで、合間、合間に、會衆一同が和して I want to be Christian をいひ、また黒人の合唱が這入って、それで終る礼拝は何だか勝手が違ふ。
ホールを出ると、そこで絶えて久しい今井さんに曾ふ。今井さんは三年半、此方にゐる間にすっかり若返ってゐる。
「アイランド湖から出て幾つかの湖をカヌーでやって来ましたの。だからこんなに黒くなりました」
賀川先生の部屋ヘ一緒に行くと、先生は今井さんをインディアンにして了ふ。それほど日に焦けてゐるのだ。
午餐は賀川先生、今井さんと私と三人一緒に食後、學生間の流行唄(フランスの烏の啼き声を寫したもの)を合唱した後、一同その國の名と自分の名をいふ事になった。恐らく世界各國の國民が集ったであらう。日本はわれ等三人だけだった。(外の日本人は別のホールで食事したのだらう。)
賀川先生 I am Kagawa Japanといはれると拍手はわが賀川先生とそしてモット博士の二人になされただけだった。
この食堂は大食堂ほどではないが、二、三百人は容れられるだらう。壁間には「ウォーターロー戦敗後の奈翁」の油絵がかゝってゐる。一人の兵卒が倒れてゐるのを奈翁が眺めてゐる光景だ。奈翁は帝國を失ったが、兵卒は一切を失った――といったやうな説明がついてゐた。
食事のサーヴィスは英國流に白襟のついた黒いワンピースを着た婦人が、汗みどろになって、運んでくれた。
飲物を「コーヒーかミルクか」と訊くので、「ミルク、プリーズ」と返事する。片言でも通じると嬉しいものだ。
出発前、一矢君が「會話なんか稽古しなくったっていい。大和魂で行け」と忠告してくれたことを思ひ出される。
食事もうまいが、ミルクがとてもおいしい。これでは英米人が肥えてゐる筈だと思ふ。
午後は前川さんの案内でトロント大學の博物館を見に行く。いろいろの武器がある中に交って、奴隷の足に括りつけた鉄鎖とオモリのあったのには一種の感慨無きを得なかった。誰か、今日の労働者がこの鉄鎖につながれてゐないといひ得やう。
甲冑に似た鉄のプロテクトが沢山に並んでゐる。こんなにまでして、人間同志が何故闘はねばならなかったか。否、現になほ戦はねばならぬか。いろいろの武器を見せられて、人間の争闘性を悲しく思った。
聖書に出て来るレプタやユダヤの着物や、燈火台や金で作った偶像なども興を惹いた。
日本のものもあった。吉原の花魁の浮世絵をゲイシャと説明のついてゐるのも面白い。将軍家の駑籠は、何でも、家茂から某外人が貰ったものだと伝へられるとか。
十八、十九世紀の室内の有様の模型も面白かった。大体に西洋の人は、家の中を整頓してゐる。不用品などが並べてはない。日本なら整頓してゐるのは客間だけだ。日本人は不用品を蓄えすぎるのではあるまいか。
今井さんの服装に似た黒人の服装があったので、先生は今井さんに「博物館から出て来たインデアン」の尊称を奉る。
小川先生は大車輪で、夜の賀川先生の講演のプリントに忙しい。
午後八時、講演が始まる。二千五百を容れるホールが一杯だ。私は今井さんと二人で一番前列に陣取る。やがて先生はモット博士らに伴はれて、プラツトホームヘやって来る。急霞の拍手だ。身の引き締まる喜びだ。讃美歌の合唱の間、私は祈った。どうか先生の講演の上に神の加護のあるやうにと。すると知らず知らずに涙がこぼれ落ちた。
二千余の異邦人の中で、日本人賀川豊彦が今、叫びをあげるのだ。ああ、何といふ感激のシーンだ。
日本から来てゐる代表たちも、けふは同胞が演壇に立つといふので、期せずして輝かしい顔をしてゐる。前方の椅子に腰を下してゐるのは、たゞに今井さんと私とだけではなく、傍らを見ると、大連の中川さんや勝俣さんの顔も見えた。
賀川先生は、今日は外人の前に出るので、三圓の賀川服を脱いで、六年前の外遊の時、北海道の佐藤さんから贈られた黒い服で居られる。
仁王のやうな六尺豊かなモット博士に並んで腰をおろす先生は、見るからに痩せて小さいが、そんな事は敢て意とするに足りない。今に見ろ、先生の雄叫びが、各國の代表の魂に大きなショックを与へるから。
印度入の合唱、独逸入のメッセージの朗読があって、先生は立った。
可成り大きい声でスタートを切った「愛」の説明だ。愛は冒険であり、愛は危険な道だ。しかし、この愛の道を外にして、人間の行くべき道はない。といって日本における十字架の実行者の例証(石井十次、本間俊平等)を挙げられ、みんな裸体になれ、そして貧しき者、弱き者を救はふと力強く結ばれた。
(つづく)