賀川豊彦の畏友・村島帰之(83)−村島「アメリカ紀行」(3)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)への寄稿の続きです。


       アメリカ紀行(3)
       カナダからアメリカに入る
       トロント――ニューヨーク――クリブランド

                          村島帰之

 (前承) 
  三十日
 けふは九時まで寝てゐたので朝飯はぬき。
 一時凌ぎに戸外で売ってゐるアイスクリームを喰べて「アメリカにおけるカガワ」の原稿を書き上げ、東日の岡崎さん宛に送る。

 昼飯はカナダ各教会の招待で、百貨店「イートン」へ行く。主客が交り合へといふので、私のテーブルは三人の英人に私一人が外國人だ。横濱は人口がどの位あるか、東京と横浜とはどの位人口の開きがあるか、賀川氏の年は、体重は(これは貫なら知ってゐるがポンドでは判らなかったので知らぬと答へざるを得なかった)、大阪毎日新聞の発行紙数は等々を訊かれる。ブロークンで答へたら、大体は判ったやうだった。
要するに単語を並べればいゝんだ。そして先方が判らないやうだったら、二度も三度も綬返すのだ。

 「毎日」の意味が判らないので、デーリーと訳したら「アイシー」と来た。
 「トロントは美しい町だ」といふと「イエス」といってニコニコする。人情に東酉の差はない。大体はカンで行く事だ。

 招待會を終った後から???を見に行かうといってプライス博士に誘はれ、ベーツ先生や賀川、小川、小林、前川の諸氏と一緒に出かける。

 トロントの町から約三十五哩離れてゐるところだ。途中、ひろびろとした農場が見えるが、農家に一戸で五十乃至百エーカーを耕してゐるといふのだから、日本の一百姓に比べて二百倍からだ。

 小麦の取入れてゐるのが見える。馬が走ると、車輪の廻転につれて鎌が車のやうに廻転して、まるで頭髪の刈られるやうに小麦が刈られて行く。

 この附近からに労働党所属の婦人の代議士が出てゐると、前川さんが説明された。 
 ボルトンキャンプはスター紙の斡旋によりロータリ―クラブその他の團体及び個人からの寄附で数十の木造キャンプハウスを作ってあって、そのハウスは大小の差はあるが、多きは百人、少きは十人を収容する仕組になってゐる。釣床になってゐるのもあった。各ハウスは多くは丘の上に立てられて、その一つ一つが趣を異にしてゐる。各ハウスにはヂッケンスとかいふやうな名がついてゐる。

 食堂や談話室、医務室は別になってゐた。私たちは談話室で茶菓の御馳走になった。聞けばここへは六月初から八月末まで、十二日交替で市街の薄倖、虚弱児童を収容するのだが、或は家族が多くて弱い者、母が結核患者で児もまた弱い者などが、方面委員の手から送られて来てゐる。毎回三百人位が送られて来て、期間内に五千人位の児を送り迎へするといふ。

 新鮮なる空気に浴し、またプールに飛込んだりしてゐれば、メッキリ健康がよくなって帰るといふ。われ等の巡回中、午睡中のものもあった。可憐なる寝顔!

 私たちは彼等のために祈らざるを得なかった。帰途はプライス博士令息が六十哩のスピードで運転してくれて、三十五哩を二十分間で宿へ帰ることが出来た。

 前日出した洗濯物が帰って来た。私の腹巷――安東長義さん夫妻が、外國へ行って腹を冷さぬやうにと心づけて贈られた――が行方不明だ。
 「腹巻なんてものは、此方の洗濯屋は見た事がないから、屹度、博物館へ出品したに違ひない」と賀川先生がジョークをいふ。
 何にしても惜い事をした。私は旅券と銀行の信用状は腹巻に入れてゐるのだから、腹巻の紛失は金庫の紛失だ。幸ひ予備が一つあるにはあるが。

 食後、キヤンプ・ファイヤーを見に行く事にする。今井さんと二人で、どうして行かうと相談してゐると、風釆の立派な英國紳士が来て、スタヂヤムヘなら私が送って上げやうといって、自分のカーの方へ連れて行ってくれた。甲子園球場ほどのスタヂヤムだ。

 最初は、La Crassといふ笟のやうなラケットで球をすくったり、投げたりして、ゴールへそれを投げ入れるゲームである。インデアンのゲームださうだ。やがて夜が来る。

 いよいよキャンプファイヤーが始まった。まづ各國のデレゲートの入場式だ。楽隊に合せて各自の國旗を掲げ乍ら粛々と入場する。各國代表の行進は、國境も、力ラーも超越しての人間的感激を催させる。

 実際、われ等は人間同志であるだけなのだ。その他のものは何でもない。私たちは各國の旗が順々に面前に来る度に拍手を送った。

 が、しかし、日章旗、おゝなつかしい日章旗が、東京及び大阪のYMCÅのボーイスによって捧げられて来た時、われ等の感激はその頂点に達した。涙ぐましい心地! 身のひきしまる思ひ!

 やがて夜となると共に、各國代表中の代表者によって、スタヂヤムのホーム附近に積んだ薪に火が点ぜられた。周囲を取巻いた代表の捧げる各國旗がその火の光によって赤く映し出される。これからこの火を囲んで演技が始まるのだ。最初は羽毛のハットを着たアメリカインデアンの原始的な踊りがあって、それから各國代表の演技がつづく。

 布畦の代表に蛇皮線に似た楽器を奏でた。
 チェコスロバキャの代表も何か知ら唄った。
 ドイツの代表も唄った。
 スカ―トをはいたスコントランドの代表のダンス――わが國の少女がコロチンを唄ひ乍ら綾取りのやうに行進して行く演技−―はまるで女のダンスそのまゝだった。

 日本の代表は、若し順番が来た場合も予想して、盆踊を稽古して来たといふが、つひに演らなかった。國際人の前でやる日本的演技は果して何がよいのか、考へて見たが思ひ浮ばない。
 十時過ぎたので、中途で、またもや英人に送って貰って帰る。

       (つづく)