賀川豊彦の畏友・村島帰之(71)−村島「アメリカ大陸を跨ぐ」(1)

 今回からは「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿した村島作品を収めます。


        アメリカ大陸を跨ぐ(1)        バンクーバーからシカゴまで
                          村島帰之

    七月二十一日
 三等船客の検疫が午前三時からあると聞いてゐたので、自分たちには直接関係がないのにも拘らす、何となく気になって、午前二時頃から眼がさめて了った。平常よりも早く、昨夜は十時頃に寝た事が、何にも役に立たなくなった訳だ。
 だが、圓窓から久し振りで見る陸地、特にまだ明けきらぬ空の下に初めて見る米大陸のなつかしさ、そして美しさ。
 第三世紀層の、低いが、しかし平均の高さを保った丘のやうな陸地が続いて見える。
 どこかの町でもらう貴婦人のドレスの金モールのやうに電光に燦めくのは。
四時過ぐる頃、思ひ切って起きる。直ぐ頭の上のデッキを行き来する靴の音が、妙に私をせき立たせるからだ。

 朝飯前、喫煙室へ出張して来てゐるカナダの移民官の前へ出る。旅券を示して、一枚の紙片にサインをするだけだ。それで査証はすんだので、旅券をオフィサーに預託し、その代証を貰ふ。
 Seizothe 1320 yesler way,teath

 デッキに出る。おお、遠くにはバングーバーらしい都市が見える。
 クリスマスケークのやうな尖塔や、箱を無数に積重ねたやうなビルディングが聳え立ってゐるではないか。
 スカイスクレーパーだ……。
 いつも絵でのみ見てゐたその摩天楼が、私たちの眼前に展開されつつあるのだ。
 「パノラマのやうだ。まだ何か夢を見てるやうな心地だ」
 私は、同じく欄によった小川先生を顧みてさういった。
「真ん中の高いのがホテルです。今はもう一つ大きいのが建てられてゐます」
後で、バンクーバーの入らしいのが説明した
 「魔天楼に驚くのは早すぎる。ニューヨークヘ行ってからだ」
 K先生が後から声をかける。

 実際、その通りだ。これは後に附け加えるのだが、その後ニューヨークヘ来て、そのスカイラインの素晴らしさを見た。勿論、それはバンクーバーなどの比ではなかった。しかし、私の頭脳に印象されるスカイラインは、ニューヨークのそれよりも、バンクーバーのそれである。ニューヨークのそれは勿論ワンダフルではあるが、私にはさほど印象的ではない。

 第一印象といふものゝ如何に強いものでるかを思はざるを得ない。
 バンクーバーは初めて見る外國都市であっただけに、その実質以上に買はれた事は覆ふべからざる事実だ。
 バンクーバーの美しさは、永い航海の後、始めて海上遠くからこれを眺めたといふ点にあった。これは、その後、旅をつづけて、各都市といふものを見慣れた後の目についで見られぬ新鮮さであった。それは繰り返しの後であるといふ事と、もう一つには、都市へ這入るのは、多くは場末の陋巷からで、その都会をまづ穢ならしいものに印象づけられるからである。これは後に附記した事だが、また前に返ってバングーバーのその日に戻る。

 中央の魔天桜街の向って左側の海岸に倉庫風の白壁が幾つも並んでゐる。
 「あれは小麦の倉庫で、小麦をまるで水のやうにポンプで直接船へ入れるのですよ」
と説明される。
 今日は横濱乗船以来、始めて見る青空だ。魔天桜の後から白い雲の峯が背伸びして此方を見てゐる。
 船は沖で一迂回して桟橋に横づけとなった。日本式の出迎人が殺到するではなし、二三十人の人の姿が小さく上屋をバックにして立ってゐる許りだ。
 廣商選手一行を迎へるために来てゐる筈の大阪毎日の福本福一君の姿がない。心配してゐると、特置員の有賀氏の存在を、露木君から教ヘられる。

 船は桟橋に横付けになった。逸早く有賀氏が上船して来た。つづいて福本君も遅れて到着した。
 異郷で友なる同僚と手を握るよろこび……なつかしさ……しかし、福本君は野球團のために来た人だ。お互は直ぐまた別れて行かねばならなかった。

 私達は先に移民官から貰っておいた上陸票をカナダのオフィサーに示して桟橋を下りた。
 十二日振りに踏む大地だ。船の上にのみ生活してゐた私達には、踏む足が、しっかりと大地につかないやうな気がした。
 映画の西部劇に出て来るやうな巨漢が「カー、カー」と烏のやうな声を出す。自動車のハイヤーをすゝめるのであらう。
 しかし、出迎えの牧師さんたちは、いづれも自分のカーを持ってゐる。楼橋近くの廣場には、まるで自動車の糶市でもあるかのやう。各種のカーが並んでゐる。その私用自動車には、いづれも honer drive British Columbia の字が見える。BCといふのはこの地の州の名だ。
桟橋のうしろはカナデァン・パシフィック鉄道の貨車置場で、赤色の貨車が無数に並んでゐる。

 一行は出迎へのオーナードライバーの車に分乗して出発する。私は吉岡牧師のカーに乗せて貰ふ。自動車が道の右側を馳駆するのにまづ目を瞠らせゐ。
 吉岡牧師は関西學院神學部の出身。
 賀川先生が初めて貧民窟に入った頃、神學部學生として先生を助けた人で、死線を越えてに出て来る三人の學生の一人である。「雲の柱」も読んでゐるし、関学新聞も見てゐられるので、私のことをよく知ってゐるとの事だった。さうきくと一入なつかしくなって、すっかり信頼した気持になる。

 自動車は海岸沿ひに坦々たるコンクリートの道を走る。
 気温八十度だといふが、少しも暑くはない。日本のやうな温気のないためであらう。
 海岸には、さっき、海上から見た小麦の倉庫が立並んで、クレーンが象の鼻のやうに見える。そこから小麦の水が放射されるのだ。
 傍にドームのついた煙筒がある。材木の削り屑を焼却するところだといふ。
 K先生は
 「焼却するって勿体ないな。日本だったら肥料にするのになあ」
といって、外人たちの放漫なやり方に呆れられる。

 自動車は第一合同基督教会の前に止る。ここでは既に社會的事業方面に意を注ぎ、幾つかの保育所を持ってゐる外、毎朝、失業者たちのためにパンとスープを給与してゐるが、毎朝千人からの客を迎へるといふ。此の地帯は貧民地区だ。見れば教会の前には二三人のルンペンが立ってゐる。
「日本人はゐるでせうか」
支那人は十人ほど来るが、日本人は一人も来ない」
といふ答へだ。人口三十萬のバークレーに二千の日本人がゐるが、一人のルンペンもゐない訳か?

 會堂を見る。竹筒型のパイプオルガンのパイプが、貧弱な日本の教会を見つけてゐる我等には異様に目にうつる。
 聴衆は二千を容れるに足ろでもらう。教会はここでは各派合同してゐるのだが、日本人もこれに倣って、メソジスト、組合、日基の三教派が合同してゐるといふ。
 海岸を離れて住宅区域に人ると、可愛らしいコテーヂが行儀よく立並んでゐる。そして、その一つ一つが前に芝生を持ち、ポーチにはそれぞれの花を飾ってある。
「僕達の顔の黒いのは、毎日ローンに水をやるからですよ」
 と吉岡牧師が赫ら顔の釈明をやる。
 各戸の間には、日本のやうな、いかめしい垣根がない。隣りの家の芝生と、此方の芝生とがつづいてゐるのだ。あっても三尺位の網の垣ぐらゐ。
 「庭は個人のものといふよりは、公共のものだとの考へがあるんですよ。日本のやうに、ガラスのかけらを垣の上に立てゝ庭口を他人の目から覆ふのとは比較にはなりませんね。」と吉岡氏がいふ。
 各コデーヂのローンでは、娘さんや子供が絨氈を掃くやうに、手入れ機でローンを刈ってゐたり、ローンのあっちこっちから水道からゴム管を引いて噴水をジョーゴ型に草の上に吹上げてゐた。

      (つづく)