賀川豊彦の畏友・村島帰之(123)−村島「アメリカ巡礼」(1)

   「雲の柱」昭和7年5月号(第11巻第5号)への寄稿分です。

        アメリカ巡礼(1)
        ロサンゼルスその他
                         村島帰之

   九月十三日
 午前十一時五十分、私たちを乗せた飛行機は予定よりも十分ほど遅れて、ロサンゼルス市を距る十三哩のグランドセントラル飛行場に着く。

 窓から瞰下すと、多くの同胞が馳せ集って来るのが見える。小川牧師の姿は見えないが、奮知の平田ドクトルの戎顔が群衆の中に発見された。

 飛行機を降りると、暫くは賀川先生を取巻いて握手攻めだ。「よく来ましたね」と徳憲義牧師が私の手を握る。平田ドクトルもニコニコして手を握る。多くのイエスの友の兄弟たちが、徳牧師の紹介で次から次ヘと名乗っては手を握る。到頭、ロサンゼルスヘ来たのだ。イエスの友のゐる羅府へ着いたのだ――。いひやうのない嬉しさが胸に湧く。

 新聞社その他の寫真機が一しきり、私たちの前で眼玉を光らせた後、私たちにその儘自動車に乗せられた。どこへ運ばれて行くのか知らない。兎に角乗る。

 ロサンゼルスの街は美しい。それに一山越しただけなのに、ベーカースフィルドに比して遥かに涼しい。空気も澄んでゐて、肺の底まで気が浸み透るやうだ。

    南 加 大 學
 自動車はやがて大きな三層楼を前にしたローンの脇へ横着になった。振り仰ぐと、そこには「南加大學」の名が見える。ここで聯合日曜礼拝が行はれるのだ。

 自動車を降りると、最っ先に小川牧師が手を出す。桑港以来四日離れてゐたゞけだが、十年も離れてゐる人に會ふやうななつかしさだ。

 南加大學の講堂は一階だけで千五百の聴衆を容れるといふのださうだが、ギッシリと詰ってゐて殆ど空席がない。正面のステーヂには天鷲絨の緞帳が下りてゐる。その前へ賀川先生が姿を現はずと急霰の拍手だ。数百の同胞が、故國の指導者に對すゐ敬意と親愛の叫びだ――。身の引きしまゐ思ひがすゐ。

 私はプラッㇳホームヘは登らずに最前列の席へ腰を下ろしてゐたが、賀川先生の話が始まり出す頃には、つひつひウトウトとして了った。徳牧師の眼がプラッㇳホームの上から此方を向いてゐうやうに思へたが、どうしても瞼が重って了って開かない。

 先生の講演は「ポウロの三つの祈り」と題するものであった。
 講演が済んで後、徳牧師が私をさし招くのでプラットホームヘ上る。小川牧師と私とを聴衆一同に紹介するためだ。私は「大毎記者」として紹介された。

 けふの礼拝は、最初の計画では徳さんの牧して居られる合同教会で行はれる筈だったのだが、同教會ばせいぜい八百を容れる余地しかないので、已むなく大學の講堂を借入れたのだが、その借賃驚く勿れ百五十弗。これが神學部を持つ大學の、空いてゐる講堂を礼拝に貸す料金ではある。

 すべての方面を商業化してやまぬアメリカだとは知ってゐたが、ここまで徹底してゐやうとは、お釈迦さまでも御存知あんめい。

 礼拝が済んでから、講堂の前で記念撮影をする。回転式の寫真機でだ。小さなアマチェアーのカメラが、バッタのやうに、諸方から飛出す。

    第二世のために

 腹が減る。今朝は飛行機に乗るので朝飯を軽く取ってゐたからだ。
 徳牧師たちは一行を直ぐ自動車には乗せないで、大學の並木を縫ふて神學校の前へ連れて行った。見れば、そこには多くの白人がゐる。少数の日本の第二世もゐる。小川さんに訊くと、白人と日本の第二世との交歓會が始まるのだといふ。

 時間がないので、校舎――嘗ては此處で小川さんが學んだ事のあるといふ――の前の石段を演壇に代えて、まづ日本の第二世が演説を始める。言葉は英語だが、ながながと喋舌るところは日本式だ。善い加減にやめたらいゝのになアと思ってゐると、果して白人の司會者から注意された。

 賀川先生は簡単直截に、
 「私はここに斯く迎へらるる事を光栄に思ふ。アメリカに二種類ある。天國アメリカと地獄アメリカがそれであゐ、太平洋の色はブルーで其名の通り平和を意昧する。天國アメリカの人達がこの平和を支持しなくてはならない」と叫ばれた。

       (つづく)