賀川豊彦の畏友・村島帰之(122)−村島「アメリカ巡礼」(7)

  「雲の柱」昭和7年4月号(第11巻第4号)への寄稿、最終回です。

         アメリカ巡礼(7)         太平洋沿岸
                          村島帰之

  (承前)
   ベーカースフィールド
  十二日
 朝七時起床。八時、またもやフレスノを立って自動車で百二十哩をベーカースフイルドに向ふ。前日の森氏のドライブで、中山牧師の附添ひだ。

 地平線の美しい廣野を走る。この辺の廣野も日本人が手を入れれば、忽ち青く変わる事が出来るのだらう。この一帯は日本移民のパイオニアの夢の跡でフレスノの日本人墓地はもうコケも蒸してゐるといふ。

 正午、ベーカースフイルド着。美以教會は奮友深田種嗣氏の牧するところ。自動車が教會の前に止ると、恰度、深田氏の會堂の前を掃除してゐるところで吃驚したやうな顔で出迎へてくれた。

 久子夫人にも何年振りかで會ふ。午餐は教會の執事の田中幸平氏方でよばれる。田中さんは植木屋さんだ。

 午後に白人の第一メソヂスト教會での説教會、晩は龍野さんの家で御馳走になる。

 聞けば龍野氏は長野県選出元自由党代議士龍野周一郎氏の令弟ださうだ。周一郎氏の令息――つまり同氏の甥――は私の中學時代の後輦であることを話すと吃驚して居られたが、さらに話して行くと、龍野氏の令嬢が垂水町長の深澤氏方にゐられることが判った。深澤氏はこれまた私の知人だ。「世間ッて、狭いものですな」と語り合ふ。

 八時から深田氏の教會でまづ第二世のための英語説教が始まり、次で九時から一般の講演があった。この辺の居留邦人の数も大したことではないのに、満負の盛況だ。尤も百人も這入れば一杯になる小じんまりした會堂ではあるが。

 ベーカスフィルト(パン焼の畠)と呼ばれるだけあって、暑いったらない。私たちは上衣をぬいで先生の話を聞いた。

 閉会後も、酔漢のやうな訪問客があって一向に腰をあげぬので眠ることが出来なんだが、深田牧師が追ひ出してくれた。

 いざ寝るとなっても、ベッㇳは一つしかない。最初はホテルヘ私たち二人を泊める段取にしてゐたのだが、賀川先生が教會の負担になるのを知って「深田君の處へ泊る」といひ出したので、急にベッドを組立てるやら深田夫妻はてんてこ舞いだ。

 そしてやがて私たちは白のシーツ、新しき二つのベッドを並べて、あけ放された窓の下で眠ったが、夜半、隣りの部屋を覗くと、深田夫妻親子四人は、ゆかの上にぢかに眠ってゐるのだった。すまないことだと思った先生は、
 「何もいってはゐけない。牧師としては、さうした経験を持つことが必要なのだから」
 と静かに制せられる。含蓄のある言葉だと思ふ。

 夜半は、さすがに涼しい風が窓から這入って、善く眠ることが出来た。

   十三日
 眼をさますと七時、賀川先生は前夜、煽風機に向って講演された関係から安眠出来なかった由。私は比較的よく眠った。

 深田兄夫妻と食事を共にする。この辺の産物であるメロンを御馳走になる。「日本なら壹圓はとるだらう」といふと「此の辺ではタヾ見たいですよ」との事だ。加州に来て最も有難いのは、此の美味な果物にありつける事だ。

   飛行機で羅府へ

 九時、加州で一番貧弱だとの定評のある深田牧師の自動車(深田氏よ、怒り給ふな)の先達で、飛行場へかけつける。ロサンゼルスヘー飛びに飛ぼうといふのだ。

 陸路を行けば山また山で、小半日はかゝるところを、空を飛べば、わづか一時間の行程だ。この飛行場は桑港からの定期航路の一駅なので、待つほどに、飛行機が着陸する。私たち二人は直ぐそれに乗った。合客は六七人。
 飛行機はこれで二度目の経験だが、山越しは最初だ。 

 やがて、飛行機は滑走を始めた、と思ふ間もなく、ふわりと地を離れた。

   (いよいよ次号はロサンゼルス)

   (この号はこれで終わり)